新年1月4日のことである。
鹿児島の用事に、今回は天草経由で行くことにした。
「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」と、吉井勇が詠んだ大江の天主堂を訪ねたかったからだ。
まず、長崎県の島原半島南端にある口之津港から熊本県の天草にある鬼池港に渡った。
年始で混んでいるかと思っていたら、豈図らんや、フェリーはガランとしていた。
(口之津港)
鬼池港近くの海岸
明治40年のことだが、吉井勇等「五人づれ」は長崎の茂木港から富岡港に上陸していたので、寄り道にはなるが、その「富岡港」を見に行くことにした。港を見るだけだったのだが…
小高い丘の上に何やら白い建物が見え、食指が動いた。もうこの地に来ることはないだろうと行ってみることにした。
そこは復元された富岡城だった。
本丸から見た富岡港
ちょっとのつもりが1時間以上も見学してしまった。
先を急がねばならないが下田温泉の近くにある「五足の靴文学遊歩道」は素通りするわけにはいかない。なぜならば、ここは吉井等が富岡港から大江まで歩いた当時の道が唯一残っているところだからだ。
「五足の靴」は吉井等5人が天草等を旅したときの紀行文であるが、当時(1907年)は今のような整備された道ではなく、荒磯伝いに峻険な山道32㎞を苦労して歩いた様子が書かれている。
現存する当時の道は約2.5㎞だが、そこに記念碑が建っている。
寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で (濱名志松)
天草の灘の没り日に悲しみし勇をおもひ白秋を恋ふ (木俣修)
歩道入口に建つ写真入りの説明板
そして遊歩道の入口
駐車場全景
天草灘の青い水平線が見えるだけの何もない丘の上、そこに建つ文人等の足跡碑。そして当時のままの径。彼等が歩いたのは8月9日という。「五足の靴」には、その日がいかに暑かったか記した次の一文がある。
「汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す…(以下略)」
炎天下に歩いてでも行きたかった大江の教会とはいかなるところか。
天草は大江だけのつもりだったが、寄り道寄り道で既に12時をまわってしまった。
昼食は吉井等が立ち寄った高浜でとることにした。(ここも寄り道になるのだが…)
高浜の海岸
きれいな海を眺めながらの本日のランチ
初めて使ったハンドルに取り付けられる簡易テーブル(これは手がフリーになるので便利)
そしてついに大江天主堂に到着
ガルニエ神父の像
そして、ありました!吉井勇先生の歌碑
歌碑と天主堂
白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿
吉井勇は数ある歌碑の中で、この天草の地に建つ歌碑を「人生の記念塔」と述懐している。
吉井勇が書いた「短歌風土記 土佐」に次の一文がある。
「この中(数ある歌碑)で人生の記念塔としての意味がはっきりしてゐるのは昭和三十年五月、じゃがたらお春の碑とほとんど同時に建てられた天草大江村の歌碑だと思ふ。それは今から五十年の昔、明治四十年の七月から八月にかけて三十日間、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野萬里等とともに九州に旅行、博多、唐津、平戸、長崎、天草、島原、阿蘇などを遍歴したときのことを数年後に回想してうたった、『白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿』といふ歌を刻んだもので、ちょうどその時長崎に来てゐた私は、茂木から富岡にゆく間の海が荒れてゐたので、除幕式には間に合わなかったが、その翌日にはやっと天草に渡って大江村へ往き、新しく建てられた歌碑の前に立って、そぞろに昔をしのぶことができたのであった。
天草の歌碑の前に立ってゐると五十年前の九州旅行の時のことをまざまざと思ひうかべることが出来るし、今またこの猪野々の歌碑の前に佇んでゐると、二十数年前のうらぶれた流離の姿がはっきりと目にうかんで来る。櫛風沐雨幾春秋とでも言はうか。私の前にあるは1箇の石の碑ではあるけれども、ぢっとそれを見てゐると、おのづからそれは声を発して、何ごとかを私に向かって語らうとする。」
除幕式のために再訪した時の歌も新たに歌碑となっている。
ともに往きし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島
何とも味わい深いしみじみとした歌である。私ごときが批評するのはおこがましいので木俣修氏の文章を借りることにする。
「老の悲哀と、人生を味解したものの諦観がその歌に色濃く匂うて来、近来いよいよ老境の滋味を示しはじめていた。」(木俣修「吉井勇研究」より)
教会の前にテント屋根の簡素なお土産物屋さんがあった。そこの店主(ご婦人)といろいろ話をする中で、この方がものすごく吉井について詳しいことが分かった。
「先生の歌碑のちょうど1番目と100番目にあたる歌碑です」とか、
「先生はこの位置(歌碑が建っている場所)に立たれ根引山(教会と反対方向にある山)の方を眺めながらこの歌を詠まれた」と。
私が「根引山?」と尋ねると、ガルニエ神父様が面倒を見られていた子部屋(孤児院)があった山だそうだ。
そして、「そのことはこの本にも書いてあります」と1冊の本を紹介してくださった。
「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)
そしてさらに、「帯は『しば先生』が書かれたものです」と。
「しば先生?」と聞き返すと、あの司馬遼太郎のことだった。
司馬遼太郎を「司馬先生」と呼ぶこのご婦人は何物?という疑問が生じた。
さらに詳しく伺ったところ、この方の義父が濱名志松氏で、濱名氏は郷土史家であり、「五足の靴」の文学史上の価値をいち早く認め、それを広く知らしめる活動をされた方ということがわかった。司馬遼太郎とも交流があったという。やり取りをした書簡等は「濱名志松五足の靴文学資料館」に残っているとのことだった。なお、その資料館こそがご婦人のご自宅だそうだ。
あらためて、午前中に立ち寄った「五足の靴文学遊歩道」の歌碑の写真を見てみると、確かに濱名志松の名が。
また、「寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で」の歌は濱名氏御自らの作だった。
最終目的の鹿児島着は夜遅くになってもかまわないので、さっそく資料館を訪ねようとしたが、あいにくその日は館長(ご主人)が留守で開いていないということだった。残念だが、またの機会によろしくということで別れた。
それにしても大収穫だった。吉井勇が健在だった頃の様子を知っている方が発見できたからだ。そしてその場で即買った「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)も、天草での吉井の足跡を調べる上で貴重なお土産となった。。
さらば大江天主堂
牛深のハイヤ大橋
牛深からフェリーで鹿児島県の長島に渡る。
阿久根の海岸を走っているときれいな夕日を見ることができた。
鹿児島の用事に、今回は天草経由で行くことにした。
「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」と、吉井勇が詠んだ大江の天主堂を訪ねたかったからだ。
まず、長崎県の島原半島南端にある口之津港から熊本県の天草にある鬼池港に渡った。
年始で混んでいるかと思っていたら、豈図らんや、フェリーはガランとしていた。
(口之津港)
鬼池港近くの海岸
明治40年のことだが、吉井勇等「五人づれ」は長崎の茂木港から富岡港に上陸していたので、寄り道にはなるが、その「富岡港」を見に行くことにした。港を見るだけだったのだが…
小高い丘の上に何やら白い建物が見え、食指が動いた。もうこの地に来ることはないだろうと行ってみることにした。
そこは復元された富岡城だった。
本丸から見た富岡港
ちょっとのつもりが1時間以上も見学してしまった。
先を急がねばならないが下田温泉の近くにある「五足の靴文学遊歩道」は素通りするわけにはいかない。なぜならば、ここは吉井等が富岡港から大江まで歩いた当時の道が唯一残っているところだからだ。
「五足の靴」は吉井等5人が天草等を旅したときの紀行文であるが、当時(1907年)は今のような整備された道ではなく、荒磯伝いに峻険な山道32㎞を苦労して歩いた様子が書かれている。
現存する当時の道は約2.5㎞だが、そこに記念碑が建っている。
寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で (濱名志松)
天草の灘の没り日に悲しみし勇をおもひ白秋を恋ふ (木俣修)
歩道入口に建つ写真入りの説明板
そして遊歩道の入口
駐車場全景
天草灘の青い水平線が見えるだけの何もない丘の上、そこに建つ文人等の足跡碑。そして当時のままの径。彼等が歩いたのは8月9日という。「五足の靴」には、その日がいかに暑かったか記した次の一文がある。
「汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す…(以下略)」
炎天下に歩いてでも行きたかった大江の教会とはいかなるところか。
天草は大江だけのつもりだったが、寄り道寄り道で既に12時をまわってしまった。
昼食は吉井等が立ち寄った高浜でとることにした。(ここも寄り道になるのだが…)
高浜の海岸
きれいな海を眺めながらの本日のランチ
初めて使ったハンドルに取り付けられる簡易テーブル(これは手がフリーになるので便利)
そしてついに大江天主堂に到着
ガルニエ神父の像
そして、ありました!吉井勇先生の歌碑
歌碑と天主堂
白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿
吉井勇は数ある歌碑の中で、この天草の地に建つ歌碑を「人生の記念塔」と述懐している。
吉井勇が書いた「短歌風土記 土佐」に次の一文がある。
「この中(数ある歌碑)で人生の記念塔としての意味がはっきりしてゐるのは昭和三十年五月、じゃがたらお春の碑とほとんど同時に建てられた天草大江村の歌碑だと思ふ。それは今から五十年の昔、明治四十年の七月から八月にかけて三十日間、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野萬里等とともに九州に旅行、博多、唐津、平戸、長崎、天草、島原、阿蘇などを遍歴したときのことを数年後に回想してうたった、『白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿』といふ歌を刻んだもので、ちょうどその時長崎に来てゐた私は、茂木から富岡にゆく間の海が荒れてゐたので、除幕式には間に合わなかったが、その翌日にはやっと天草に渡って大江村へ往き、新しく建てられた歌碑の前に立って、そぞろに昔をしのぶことができたのであった。
天草の歌碑の前に立ってゐると五十年前の九州旅行の時のことをまざまざと思ひうかべることが出来るし、今またこの猪野々の歌碑の前に佇んでゐると、二十数年前のうらぶれた流離の姿がはっきりと目にうかんで来る。櫛風沐雨幾春秋とでも言はうか。私の前にあるは1箇の石の碑ではあるけれども、ぢっとそれを見てゐると、おのづからそれは声を発して、何ごとかを私に向かって語らうとする。」
除幕式のために再訪した時の歌も新たに歌碑となっている。
ともに往きし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島
何とも味わい深いしみじみとした歌である。私ごときが批評するのはおこがましいので木俣修氏の文章を借りることにする。
「老の悲哀と、人生を味解したものの諦観がその歌に色濃く匂うて来、近来いよいよ老境の滋味を示しはじめていた。」(木俣修「吉井勇研究」より)
教会の前にテント屋根の簡素なお土産物屋さんがあった。そこの店主(ご婦人)といろいろ話をする中で、この方がものすごく吉井について詳しいことが分かった。
「先生の歌碑のちょうど1番目と100番目にあたる歌碑です」とか、
「先生はこの位置(歌碑が建っている場所)に立たれ根引山(教会と反対方向にある山)の方を眺めながらこの歌を詠まれた」と。
私が「根引山?」と尋ねると、ガルニエ神父様が面倒を見られていた子部屋(孤児院)があった山だそうだ。
そして、「そのことはこの本にも書いてあります」と1冊の本を紹介してくださった。
「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)
そしてさらに、「帯は『しば先生』が書かれたものです」と。
「しば先生?」と聞き返すと、あの司馬遼太郎のことだった。
司馬遼太郎を「司馬先生」と呼ぶこのご婦人は何物?という疑問が生じた。
さらに詳しく伺ったところ、この方の義父が濱名志松氏で、濱名氏は郷土史家であり、「五足の靴」の文学史上の価値をいち早く認め、それを広く知らしめる活動をされた方ということがわかった。司馬遼太郎とも交流があったという。やり取りをした書簡等は「濱名志松五足の靴文学資料館」に残っているとのことだった。なお、その資料館こそがご婦人のご自宅だそうだ。
あらためて、午前中に立ち寄った「五足の靴文学遊歩道」の歌碑の写真を見てみると、確かに濱名志松の名が。
また、「寛・白秋・勇・杢太郎・萬里等がたどりし径ぞ五足の靴で」の歌は濱名氏御自らの作だった。
最終目的の鹿児島着は夜遅くになってもかまわないので、さっそく資料館を訪ねようとしたが、あいにくその日は館長(ご主人)が留守で開いていないということだった。残念だが、またの機会によろしくということで別れた。
それにしても大収穫だった。吉井勇が健在だった頃の様子を知っている方が発見できたからだ。そしてその場で即買った「五足の靴と熊本・天草」(濱名志松)も、天草での吉井の足跡を調べる上で貴重なお土産となった。。
さらば大江天主堂
牛深のハイヤ大橋
牛深からフェリーで鹿児島県の長島に渡る。
阿久根の海岸を走っているときれいな夕日を見ることができた。