この像が金泉寺の本尊として祀られている不動明王です。
金泉寺の不動明王というと、金泉寺の由来に次のように登場しています。
「金泉寺は、空海が平安時代の初め頃、(途中略)身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。」(高野山真言宗 太良嶽山 金泉寺のホームページ「金泉寺の由来」より)
現存するこの不動明王は、その作風が平安後期のものと言われていますので、開山時のものではないと思われます。
仮に、平安時代後期の作としても、1583年のキリシタン教徒による金泉寺焼き討ちの時に、よくぞ難を逃れて今日に至ったなと感心せずにはいられません。
といいますのも、当時大村でのキリシタン教徒の在来宗教への攻撃はすさまじいものだったからです。1574年以降神社仏閣に対して破壊、焼き討ち、略奪に加え、僧侶の殺害と凄惨を極めたことが記録に残っています。
またこの時、金泉寺の瞬恵という僧が本尊を背負って逃げ、洞穴に隠れ難を逃れたいう旨が太良嶽縁起に記されています。
幾星霜に耐え、昨年(平成25年)、九州国立博物館の「山の神々 -九州の霊峰と神祇信仰-」というトピック展に、この金泉寺の不動明王と二童子立像が展示されました。
次の写真の両サイドが二童子立像で、左が制吒迦童子、右が矜羯羅童子です。
なお、この時の展示では次のように紹介されていました。
「正面観は12世紀の仏像らしく静穏。しかし背面には荒々しく鑿痕をのこす。これは、霊木からの出現途中であることを示しており、神祇信仰の影響を窺わせる。」
左側の腰を左に折っているのが制多迦童子で、右が矜迦羅童子です。両者の製作年代は違うとされています。制吒迦童子の作風は不動明王と同じ時期と言われていますが、右の矜羯羅童子は、何らかの理由で消失したものを後世になって補ったとされています。
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