TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

温泉山(うんぜんさん)

2016年02月07日 | 島原
「温泉」と書いて「うんぜん」と言っていた。
お山「うんぜん」を「温泉」から「雲仙」に表記を変更したのが昭和9年のことである。

今でも「温」と書いて「うん」と発音する例はある。「温州みかん」(うんしゅうみかん)、「温気」(うんき)等。

それはさておいて、「温泉山」について調べていたら、吉田松陰が温泉山に登った記録が、「西遊日記」に残っていた。
「十一月十七日晴れ、温泉山に登る。一老翁を請いて従う。(中略)嶽に登れば寒気十倍し雪花名飄々たり。(以下略)」

旧暦の11月だから今の12月のことだろう。「嶽」がどの山なのかは分からない。今でも雲仙岳というと普賢岳や国見岳、妙見岳などの総称として使っているからだ。「寒気十倍」という表現が冬山の厳しさをよく言い表している。今のような防寒具がなかった時代だっただろうから。ましてや稜線上を吹く北風は体感温度をさらに下げる。
「雪花」は梢の雪か霧氷なのだろうが、風に吹かれながらも凜とした様が窺える。

以下は、普賢岳の霧氷(H24.2.8撮影)







今、普賢岳山頂からは平成新山が見える。
吉田松陰が登った嘉永3年(1850年)にはなかった山なので、さぞや松陰先生も驚きのことだろう。




まだ終わらない。
「千々石(ちぢわ)deその日暮らし~長崎県雲仙市千々石町」さんのブログを拝見していたら、私と同じようなテーマの「「温泉(うんぜん)」から「雲仙」へ 蛇足(だそく)でおしまい」を書いておられた。その中で国土地理院の地図を取り上げていらっしゃったが大変参考になった。
私もさっそく地図を広げてみた。

(「地形図 NI-52-11-12-2・4 うんぜん」、「地形図 NI-52-11-12-1・3しまばら」)


ある、ある。「温泉岳」の表記が。




さらに北の九千部方面にも「温泉岳」が!これで合計3ヶ所。




温泉山・雲仙岳は、普賢岳、国見岳、妙見岳の主峰だけでなく広く野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳も含めての総称だった。
確かに、「三峰五岳の雲仙岳」と言われている。
コメント

「高来」 

2016年02月06日 | 島原
先日の「家族に乾杯」。元気になって再登場された加藤茶さんが、趣味だったゴルフや麻雀を止め、今では習字を始めたと話されていた。
人の趣味は年とともに変わるもの。(あるいは周囲の環境で)
私の場合、これまで全く見向きもしなかった寺社仏閣に興味を持ちだした。
あと、大樹とか身近な歴史、方言などにも。
いろいろと調べ物もしているが、知らなかったことが分かるということはこの年になっても喜びである。
本ブログは地味で、人が見たらしょうもないことかも知れないが、その時々の自分の心のときめきを綴っている。前置きが長くなってしまった…



方言や地名を調べていて、自分なりのささやかな発見があった。

  天つ日よ 夏は来るとも 筑紫なる 高来の民に 障りあらすな

これは歌人吉井勇の歌だが、「高来の民」は、多良岳の麓の高来町の民と思っていたら、実は、雲仙山麓の民のことで、島原半島の暮らす人たちを慮っての歌だったのだ。

この歌は、歌集「天彦」の「羇旅三昧 筑紫中国」の中に登場する。島原を詠んだ歌の中に「高来」が混じっていたが、これまではあまり気にとめなかった。
ちなみに、次の順番で歌集に収めてある。

  眉山はながくわが目に残るらむゆふべ寂しと見たるものから
  天つ日よ夏は来るとも筑紫なる高来の民に障りあらすな
  島原は石垣の町木槿まち夕日のいろもほのかになるかも
  合歓の花ほのかに紅く咲き出でて雲仙みちの昼しづかなる
  雲仙の蓮華躑躅の樹蔭より紅毛童子馳せ出でにけり

「眉山」、「島原」、「雲仙」と島原の中に「高来」が混在しているわけだ。
ただ、「高来」には「たかく」とルビがふってあったが、これもあまり気にしなかった。

 

ところがだ、温泉神社について調べていたらいろいろなことが分かった。
まず、「筑紫」について。雲仙にある温泉神社四面宮はかって「筑紫国魂神社」と呼ばれていた。「筑紫」は、鹿児島の桜島が「筑紫富士」と呼ばれているように、昔はは九州の総称として使われていた。
次に「高来」だが、「肥前国風土記」に、雲仙の山に神がいたとして「高来津座」が登場している。そしてその麓の地方を「高来の郡」といい、後の「高来郡」の由来となっている。

「肥前風土記に昔者纏向の日代宮御宇天皇(景行天皇12年能襲御親征の時)肥後国玉名郡長渚浜之行宮に在りて、此の郡の山を覧て日く。彼の山之形、別島に似たり。陸に属るの山か、別在の島か、朕之を知らまく欲りす。仍て神大野宿禰に勅して遣はして之を看せしむ。往いて此の郡に致れば媛に人有り迎来りて日く『僕者此の山の神、名は高来津座、天皇の使の来るを聞き迎え奉る而巳』因って高来の郡と曰ふ。筑紫国魂神社記に是国魂の神、高来津坐神作り而現耳。」
(「温泉神社 南高来郡小浜町 - 神奈備にようこそ」のホームページより引用)

また、諫早市の「高来町」は、昭和31年に、湯江町、小江村、深海村が合併してできたときの新しい町名だ。もちろんこの「高来(たかき)」は、肥前国風土記以来の歴史ある地名「高来郡」に由来している。
(補足だが吉井勇がこれらの歌を詠んだのは昭和11年から12年で、「高来町」と命名される前。また、「温泉(うんぜん)」が「雲仙」に改められたのが昭和9年だから「雲仙」の表記はこれでOKということになる)

長くなってしまったが、「高来の民」に「たかく」とルビをふっていたのはそういうことだったのだ。
まあ、災害がないようにと祈った歌なのであまり理屈っぽくならず、高来町でも、高来郡でも地域を限定しないのがいいのかも知れない。

コメント

「おこじろ様」と「おしめん様」

2016年02月04日 | 島原
ふと目にした「歴史漫画『いさはや』」の巻末に、諫早の方言がまとめてあった。
その中に、「これわ」が載っていて、意味は「ありがとう」だった。

思わずうれしくなった。
半世紀前の島原のことだが、私の祖父は来客との別れ際によく「これは、これは」と言っていたのだ。

今島原で「これは、これは」を使う人はいない。

「これは、これは」は、「これはこれは、本当に(お出でくださり)ありがとうございました」と感謝の言葉であると自分なりに理解していた。
「これは」は、「こんにちは」や「こんばんは」のように後の部分が省略された形のあいさつ言葉で、しかも二回くり返すことでより感謝の意を深く表している。

「これわ」じゃなくて「これは」と表記すべきであろうが、それはさておいて、「これは(わ)」が方言として取り上げてあったことが驚きであり嬉しかった。なぜなら、方言についてはいろいろとネットや本で調べているが、「これは」はどこにも見当たらなかったからだ。(単に私の研究不足かも知れないが)

祖父はやさしかった。祖父が使っていた言葉には温もりがあり、今でも私の中で生きている。
祖父が生まれたのは明治で、ラジオもまだ普及していなかった時代だから、情報は書物か口伝えであった。特に、親から子へといく代に渡って言い伝えられた言葉は、その地方の歴史であり文化であった。やがてラジオが普及し、そしてテレビが全家庭に普及し方言は激減した。言葉が全国的にそろってきたのは大きな進歩かもしれないが。

方言を調べれば調べるほどに、その中にいろいろないわれや価値があることが分かってきた。
地名についてはこれまでも述べてきたが、今回は島原の実家の近くにある2つの神社の呼び方について述べてみたい。

その2つの神社は、ゼンリンの地図等に「高城神社」、「三会温泉神社」と表記されている。読み方は「日本の神社・寺院検索サイト」にもあるように「たかしろじんじゃ」、「みえおんせんじんじゃ」が一般的だ。しかし、祖父はもちろん、父も私も「おこじろさま」、「おしめんさま」と呼んでいた。

「おこじろ様」は「おこじろ様」で地域の人はみんなそう呼んでいる。活字やネット等の検索サイトがなければなんの疑いもなく「おこじろ様」である、これからもずうっと。


はじめに「おこじろ様」こと「高城神社」について


なぜ「おこじろ様」なのか、ここからは私の私見である。
高城の「高」を音読みして「こうじろ」と考えていた。それに敬意を表して「おこじろ様」と。
ところが、現地に行ってよくよく見てみたら、鳥居には「古城宮」とあるではないか。



なるほど、これなら「古城」を「こじろ」と読み、敬意を払って「おこじろ様」だ。
ただ、鳥居を寄進した人が、昔からの言い方でそう表記した可能性もある。
ネット検索で、「古城宮」で「おこじろさま」と言う例は出てこない。いつか、地域の長老に尋ねて見ようと思う。おっと、私の父などが長老の部類なのだが、父に尋ねても
「『おこじろ様』は『おこじろ様』たい」の一言。



次に「おしめん様」こと「温泉神社」について










バス停は「三会神社」、地図等には「三会温泉神社」、鳥居や社には「温泉神社」と書かれている。
これについては歴史書をはじめいろいろな文献に登場しているので、そのルーツが分かった。

まず「温泉」の読み方は歴史的には「うんぜん」である。

「うんぜん」といえば「雲仙」が真っ先に思い浮かぶのだが、「雲仙」という表記は昭和9年に新しくできたもの。それまでは「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいた。
昭和9年に、日本で最初の国立公園になるのにともない、いわゆる「温泉(おんせん)」との混乱を避けるために「雲仙」と表記をあらためた経緯がある。

温泉山(今の雲仙岳)は高野山、比叡山と並ぶ山岳宗教の「三山」で、古くから信仰の山であった。701年に大乗院満願寺が建てられ、それを守る神として温泉神社四面宮ができている。その分社が千々石、山田、有家、諫早の四社で、それらはいずれも地元の人から「おしめんさま」と呼ばれている。さらに神社は増えて温泉山(雲仙岳)を囲むように、島原半島の各村に温泉神社が置かれていった。三会の温泉神社もその一つである。元をたどれば「四面宮」なので「おしめん様」なのである。

諫早神社も地元の人は「おしめんさん」と呼んでいる。温泉神社四面宮の分社は「おしめんさん」または「おしめん様」なのだ。
これは記録や文献が多いのでルーツをたどることができたが、ルーツなど知らなくても「『おしめん様』は「おしめん様』たい。昔からそがん言いよっと」と父から叱られそうである。
コメント

愛車アトレー

2016年02月01日 | 
そろそろ買い替えと思っていたアトレーですが、先日の雪道を走って、やっぱりこの車は使い勝手がいいなと実感し、買い替えを思い直したところです。
私にとって実に便利な山の道具で、買い替えの候補に挙げているジムニーにはない使い勝手のよさがあります。それは、軽の箱バンゆえに小回りが利くこと、ハイルーフで居住性がよく道具がいっぱい積めること、リアシートをたたんでフラットなベッドになること、ハッチバック式のリアドアは雨よけになり天気が悪い日の道具の出し入れで重宝することなどです。

【主なスペック】
全長×全幅×全高  3395×1475×1865mm
最低地上高       160mm
タイヤサイズ(前)    165/70R13 79S
後輪駆動の2WDですが、悪路や雪道をがんばって走ってくれます。
最低地上高が若干ですが他の箱バンより高めなのが強みです。


2014年の2月に「アトレーキャンピング雪道を行く」でアップしたのですが、その時の雪道を走っているときの様子を再度大きな写真で紹介します。


行けるところまでそのまま走って


ここでチェーンを装着












仁田峠循環道は通行止めで閉鎖されていたので、池の原園地の駐車場に止めて、白銀の世界へ



(以上2014年2月15日に撮影)

雪道を走るのも楽しいですが、アトレーをテント代わり(車中泊)にしての山行もワクワクします。
今年はぜひ九州の奥深い所の山にチャレンジしようと思っています。
コメント