会津美里町西勝に伝承される「西勝彼岸獅子舞」、太夫獅子、雄獅子、雌獅子の三体で舞われる獅子舞。寛永3年(1626)西勝集落が大火により全焼し、後、天明の大飢饉、その後の疫病によって村の人口が半減した寛政10年前後に、獅子の霊力にあやかろうと、火伏せと五穀豊穣、死者の供養のために、招致したものと伝えられています。 毎年・春の彼岸の春分の日を中心に町内と西勝集落を踊り子、笛、太鼓などによって舞が披露されています。
会津美里町船場にある「向羽黒山城一の曲輪(本丸)」、陸奥国にあった日本最大級の山城。城跡は国の史跡に指定されていますが、ここを登ってゆく根性は無し😓
でも登山口に設けられた駐車場からの眺めは最高にステキ😍 さすがに「会津盆地一望の ビューポイント」の説明はだてじゃない。
「古釜18567年(安政5年)1920年代(明治末期)まで使用。大釜1860年(万延元年)1920年代(明治末期)まで使用。」『水野瀬戸右衛門 共同窯跡』水野瀬戸右衛門以下16名共同窯と言う事で16名の氏名が記されています。
近くの「会津美里町観光協会」の一画に展示されていた鬼瓦
会津美里町高田甲に建立された「慈眼大師御誕生地」碑。大正13年、舟木舘跡に建立された天海大僧正の生誕地をしめす石標。刻字は輪王寺門跡大照円朗大僧正による書。昭和43年(1968)2月22日に町指定史跡に指定されています。
天海大僧正の生誕地の斜め向かい、会津美里町公民館前に立つ「天海大僧正」石造と「護法石」。
天海僧正は天文5年(1536)に会津美里町(高田地区)に舟木景光夫婦との間に生まれ、幼名を兵太郎といいました。なかなか子宝に恵まれなかった舟木夫婦は文殊堂に籠って子供の誕生を祈願した結果、天海を授かったといわれています。舟木夫婦は子供が産まれたことを記念して「護法石(ごほういし)」を屋敷敷地内に建立したといわれています。この石は「遥拝石」とも呼ばれており、天海が太陽を拝んだことが由来とされています。また、この石には「天一」とも刻まれています。
「天海大僧正」の右に見えていた色鮮やかなお神輿は、国指定重要無形民族文化財に指定されている「会津美里町:御田植祭太鼓台」。祭りの連と呼んで良いのかどうか不明ですが「第一仲若」の太鼓台のようです。
会津美里町新屋敷稲荷宮甲に残る「町指定文化財 新屋敷一里塚」。「下野街道沿いに位置するこの塚は、かって寛文七年(1667)に国に設けられた一里塚で当時坂下一高田一大内一田島への盆地西部の交通史上重要な史跡である。これ以外のものはすべて破壊されており、東側のこの一里塚が遺された唯一の物である。」現地案内
会津美里町新屋敷東十二神甲に鎮座される「十里神社」。通りすがりにお見掛けした神社故、鳥居前の拝礼で失礼します。
通りがかりに見かけた巨大大俵・・あれは確か坂下坂下町で見たもの・・え??私たち、道を間違えた!!?? いえいえ、大丈夫。実は会津美里町にも、四百余年の伝統を誇る「奇祭 大俵引き」があるのです。
町の目抜き通りで。日没後にかがり火や提灯の明かりの中で行われる豪快綺麗な正月行事「大俵引き」。 長さ五メートル、直径三メートル、重さ三トンの大俵を町内の若者が上手と下手に分かれて引っ張りあい、 上手が勝つと米の値段が上がり、下手が勝つと豊作になるといわれています。新鶴PAの地域案内地図に見かけた「大俵引きの里」には、両方の地名が入っていました。
訪問日:2015年6月28日&6月30日