肱川随一の景勝地「臥龍淵」を臨む「臥龍山荘」。建物は「臥龍院(がりゅういん)、不老庵(ふろうあん)、知止庵(ちしあん)」から成っており、それぞれに数寄を凝らした建築様式を見ることができます。
「明治時代の豪商で木蝋貿易に成功した『河内寅次郎』が、老後の余生をここで過ごしたいと、大洲随一の景勝地であるこの地に明治30年頃から10余年をかけて築造した別荘。寅次郎氏は、明治42年10月に亡くなっており、居住はごく短期間でした。寅次郎氏亡き後、養子の陽一氏は一時、弟の上甲文友氏に管理を委任。その後昭和20年、戦災のため、陽一氏は大洲に引き揚げてこの地に常住しました。昭和53年3月20日にこの地を陽一氏より譲り受けて保護管理することとなり、昭和55年春より大洲市の観光拠点として一般公開されるようになりました。」大洲市HPより
黒門の向こうには、庵そのものを船に見立て、臥龍淵の崖の上に建てたという「不老庵」。
「乱れ積み」「末広積み」「流れ積み」と変化を持たせた石積みの中に繁茂する生きた「チシャの木」。石垣の中に埋め込まれた「石臼」。長い年月を経て独自の景観を生み出した景色は、大洲の最も心惹かれる風景として心に残りました。
本来ならゆっくりと時間を取って内部の見学をしたかったのですが、あまりにも詰め込み過ぎたスケジュールが「ダメダメ! 絶対に無理だよ」と耳元で警鐘を鳴らし続けています。
位の高い門跡寺院などを表す五段の筋塀、それよりもさらに多い六段は何を意図しているのだろう。明治も終わりのこの時代、それを言う人はいなかったのか、それとも相応の位を得ていたのか・・ただ単に、塀の高さの為に必要だっただけなのか・・
塀越しに見える風雅な佇まい、見たい景色が一杯ある。
それでも計画を練る時に一応納得したのだから、それは誰の所為でも無い。ましてご亭主殿に文句を言う筋合いなど、これっぽっちも無い。
長い長い塀沿いの道を上りながら、「ねぇ、またいつか、もう一度ここに来られるかな?」と、何でもない風で聞いてみる。
訪問日:2011年6月13日
(※)2016年7月25日、「臥龍山荘 臥龍院・不老庵・文庫」の3棟は、国の重要文化財に指定されました。
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