宍道町来待地区周辺には、「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)・・いわゆる「来待石」と呼ばれる良質の石材が産出される採石場があります。特に大森―来待層で採れる来待石は石質が均一であるため、良質な石材として利用されてきました。中世には宝篋印塔・五輪塔などの石塔に、江戸時代後期には石灯ろう、狛犬などを始めとする様々な来待石製品が、全国各地へと盛んに運ばれていきました。現在でも、国指定の伝統的工芸品「出雲石灯ろう」や彫像や石碑などのモニュメントに幅広く使われています。
丁度、駅に停まったコミュニティバスの運転手さんに話しかけられ、ついつい熱く狛犬を語るご亭主殿。 それならば是非にと勧められたのが「来待ストーンミュージアム」。ええ、もちろん予定に入っています(*^^*)
宍道町東来待、来待石の採石場跡地にオープンした「来待ストーンミュージアム」。ここでは「三才谷(みさいだに)の大岩」と呼ばれている採石場跡地を始め、来待石の歴史、文化等を学ぶことが出来ます。
敷地内の来待石のアレやこれやを写真に写していると、先ほどのバスが入ってきて、又しても来待石の狛犬を熱く語るご亭主殿。そんな狛犬大好きな私達の為に、わざわざ館長さんにお声を掛けてくださいました。
実はこの方、「狛犬見聞録―来待石・福光石の唐獅子文化」の著者の一人『永井 泰』氏。 この思いがけない事実を知ったご亭主殿の喜びときたらそれはもう、一人で天に舞い上がっていました。
色々なお話の中で特別に見せていただいた「出雲構えの狛犬」は、永井館長の監修の元、若い職人さんによって作られたものだとか。 もうすぐ博物館に収蔵されると言うことで、「うまく間に合って良かったです」と言って頂きました。
さぁ感激の対面の興奮冷めやらぬうちに、トンネルを抜けてミュージアムへ。 トンネルを抜ける・・・SF小説などではその先は異世界に繋がっている・・なんて設定ですが、確かにこのトンネルも異世界への通路かもしれません。
トンネルを抜けた先にあるのはまさに異世界。何と言うか・・どう形容してよいのか戸惑ってしまうような非日常の景色。ここは明治25年から昭和30年まで操業していた採石場、通称「三才谷の大岩」と呼ばれた場所。
岩の壁に残るのは、「マサカリ」と呼ばれる工具を使用した手掘り採石の跡。
伐り出された来待石を運ぶのは大森の山に棲むタヌキ・・・?? タ・ヌ・キィ~~~?(゚Д゚il!)??!!
(^.^) まぁ、何はともあれ来待石のアレコレが学べる来待石ストーンミュージアムへ
産業としての「来待石」の歴史は古く、古墳時代の石棺から中世の石塔、石仏、近世には石州瓦の上薬として。また、灯ろう、石臼、かまど、棟石、墓石などと、様々な場所や物づくりに利用されてきました。
江戸時代には、「御止石」として藩外の持ち出しが禁じられたほど、重要視された「来待石」。館内には展示物に交じって来待石を切り出す人たちの姿も・・
何時の時代の作品なのか・・石材店さんから寄贈されたという「布袋尊」。三谷神社の引退狛犬さんは、仔狛と一緒にこのミュージアムで余生を過ごしています。
1,400万年前(新第三紀中新世中期)の火山堆積物が海底に堆積して形成された「大森-来待層」。切り出された石からはサメの歯、貝類、樹木など、堆積当時の生物・植物の化石が産出されています
ミュージアムを出た後は、最期のお楽しみにとっておいた永井館長収集の狛犬さんに一直線。かって「三谷神社」の神域を守護されていた「天保5年建立の出雲式構え型狛犬」。 石工の名は松江寺町の『林蔵』と、かなり詳細に狛犬さんの来歴が記載されています。
「朝倉彦神社」にいた「出雲式座型狛犬」。昭和10年の建立で、石工は『安食 鉄太郎』。
永井館長の入念なメモは島根に座す狛犬全般にわたり、その内容にはただ圧倒されるばかり。実はご亭主殿、その素晴らしく膨大な資料を、永井館長からプレゼントされたのです。旅に出られなくなった今でも、その資料の束はご亭主殿の秘密のカバンの中に大切に仕舞われています。
訪問日:2011年5月18日
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