安曇野市三郷明盛に鎮座される「貞享義民(じょうきょうぎみん)社」。御祭神は『多田加助・他、同士十二名の御霊』。合祀『水野忠直』
「創建は貞享騒動後50年目の享保20年(1735)、多田家の祭神として邸内に祠を建立したのが始まりといわれる。明治13年(1880)萱村郷蔵跡に社殿を再建。貞享騒動に参加した12名の御霊を合祀。このとき祟りを怖れた水野家が密かに供養していた多田加助の木像が寄進される。明治31年(1898)新たに社殿を造営、これを期に騒動の際の領主であった水野忠直の御霊も合祀。」貞享義民社の由来と沿革より
「二斗五升 語り伝えよ 稲の波」 処刑されるその時、加助は磔柱の上から城をにらみ、「二斗五升挽!」を絶叫しつつ息絶えたと伝えられています。碑は、俳人:柿之本芳月の句を基に建立。読み返すほどに胸が締め付けられてなりません。「二斗五升挽」のいきさつは安曇野市公式HPを参照
境内の西北裏手にある『多田加助』の墓、墓碑には「悟雪承頓居士」の戒名が刻まれています。
「彦之丞・伝八・三蔵」の墓
「貞享義烈碑」
貞享騒動300年を記念して昭和61年に建立された「貞享義民顕彰慰霊碑」。碑の裏面には「建碑の辞」が刻まれています。「貞享3年(1686)11月22日、松本城下の勢高刑場及び出川刑場において、一揆の頭取である多田加助をはじめ小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七のあわせて8名が磔、他の同志や事件に連座した子や弟など20人が獄門に処せられました」
参拝を終え、満開の桜の道をまっすぐに進むと「貞享義民記念館」が見えてきます。
記念館は、貞享騒動の義民らの業績を称え、史実を蘇らせ、その精神を顕彰していくと共に、郷土の歴史や文化に触れることのできる場として1992年に建設されました。
安曇野市三郷明盛、「貞享義民社」を模して造られた「中萱(なかがや)駅」。
駅前に建立されていた「加助」の胸像レリーフ
レリーフの下に「中萱加助」と刻まれているのは、彼が中萱村の庄屋であった事に由来するのでしょうか?そのあたりの詳細は不明です。
「貞享義民社」の参拝を終えて感じた事・・・民の為に訴えを起こし処刑された側、約束を反故にして処刑した側が、時を隔てて同じ社殿に鎮まり、祭神として祀られる・・・日本人の「神」に対する意識、その心根・・改めて深く考えずにはいられません。そして・・近現代の日本国において、勝者によって戦犯の汚名を着せられた方々・・かってこの国の人々は政党の枠を超えて全員一致ですべての御霊を神として祀りました。いつしか時が流れ、自らを識者と自認し、賢ら顔でその御霊を指さし犯罪者と言い募る愚者たち・・私にはどうしてもそんな輩が許せず、情けなさに胸が痛むのです。
参拝日:2016年4月20日
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