豊岡市出石町東條、街の中心部から少し離れた坂の上に門を構える「願成寺(がんじょうじ)」「宗鏡寺(すきょうじ)」。
町内の各所に設けられた旧跡案内の看板には、「願成寺のだるま像」と、「宗鏡寺縁の沢庵和尚」が描かれており、町歩きの好奇心をくすぐります。
なだらかな・・と言えば情緒的ですが、足に問題ありの私の感想では、ダラダラと長い坂道😓を登った先に、二つの寺院が見えてきました。
坂道の突き当たりに位置する臨済宗大徳寺派寺院「圓覚山:宗鏡寺」。出石城主の菩提寺であり、『沢庵宗彭』所縁の寺として知られています。
山門の横の土塀に埋め込まれた瓦は、実際の瓦の縮小版だとか。
「元中9年(1392)、山名氏の菩提寺として入佐山の麓に『山名氏清』によって開基。開山は東福寺の『大道似禅師』。寺号は氏清の法号である宗鏡寺殿に由来。山名氏滅亡後永らく荒廃していたが、出石城主『小出吉英』のすすめを受けた沢庵により元和2年(1616)に再興。たくあん漬けの考案者ともいわれる沢庵和尚に再興されたことから沢庵寺とも呼ばれ、境内には沢庵和尚の墓所もあります。」公式HPより抜粋
境内にある沢庵作庭の池泉鑑賞式日本庭園を見ずに帰るのは残念でしたが、時間にゆとりがない事もあり、門前にて失礼させていただきます。
「宗鏡寺」のすぐ下に、塔頭寺院の一つで臨済宗大徳寺派寺院「萬里山:願成寺」があります。『川崎尚之助』の菩提寺だそうですが名前を聞いても誰??・・後に『新島八重』の最初の夫と聞いて「ほぉ~そうなのか」と・・😅
「もともとは宮内にあったが、大永5年1(1525)に『山名致豊』が此隅山城から有子山城に移ったのに伴って現在地に移転したとされる。享保2年(1722)建造の山門は、一間一戸、入母屋、桟瓦葺、上部は吹き放しの鐘楼門形式で豊岡市指定文化財。」
この山門の前には、京丹後市網野町の「正徳院:住職」から送られた、二体のだるま大師像が置かれています。木造で高さは130cm程。その表情は見れば見るほど味わい深く、見つめる時々の心に合わせて変化します。
また境内の鐘楼の前には、衣の袖で深く顔を覆った「だるま大師像」が座しています。5世紀後半から6世紀前半に禅宗の祖と崇められ、臨済宗の初祖ともされる『菩提達磨大師』。
衣の隙間から見えたお顔は静かに瞑目し、同じ目の高さで見つめていると、胸が熱くなります。叶うなら縋りつきたい衝動・・・それが何によるものなのか、単にその時の心情からだったのか・・今も分りません。
「願成寺」横の広い空き地は「宗鏡寺:観光駐車場」となっていますが、入り口近くの一画に、時代も定かでない幾体もの石仏が並んで祀られています。
座すもの、立っているもの、光背の中に彫りこまれたもの、その姿は様々。
その駐車スペースの一番奥まった部分に、比較的新しい地蔵立像が祀られていたのですが、一体だけお体に似合わない時代を経たお首の地蔵様がおられました。
添えられた碑には、寺に着任した折に首のみの地蔵様があった事。由来も不明であった為、そのまま放置できず、お体を添えた事が記されています。
誰がお供えしたものか、お揃いの赤い毛糸の帽子とマフラーが・・とても暖かそうで・・。
参拝日:2011年3月31日
木彫りと言うのが更に温かみを感じさせたのかもしれませんが、嫌な事や辛い事も全部引き受けて「大丈夫だよ」と言ってくれるような・・
そんな心持にさせてくれるお姿でした。
「沢庵和尚の宗鏡寺」と「だるま様の願成寺」そればかりでなく、さまざまの姿をされた石仏と、赤い襟巻きのお地蔵様など、貴方の心を捉えて離さなかったのではないでしょうか。
宗鏡寺が沢庵和尚のお寺と言われますと、それだけで親しみを感じます。それより驚いたのは、狛犬の代わりに、木彫りのダルマ様が門前の守りをされていたことです。
私の知るだるま様は、大きな目玉のいかつい方ですが、願成寺のだるま様は皆、穏やかで優しい表情でした。無意識のうちに縋りたくなる貴方の思いが、少しだけ分かります。
良いものをたくさん教えていただきました。
多分、同じ近畿圏でも、京阪奈の都市部と違って山間の地という部分が大きく作用したのではと思います。
「奈良」はやっぱり時の都だった地域、古いものは至る所に存在していて、中心部歴史遺産を残す為には、取捨選択せざるを得なかったのでは・・と、まっちさんのお話を伺って考えさせられました。
大和郡山は・・金魚の養殖田😅
彼我の差はどこに由来するのか?
出石藩自体の石高は大したことはなかったものの、その前身は最盛期には11か国の守護を兼ね「六分の一殿」と称された山名の本拠地があったことが大きいんでしょうねえ。
あと但馬は山に隔てられた小盆地が点在し維新以降も各中核都市が地域の商工の中心地となり明治期の建築物も多々建設された。
一方、奈良はその社会的活動が奈良盆地に集約されるため、政教は奈良に、商業は八木(橿原)に纏められ、高取の出る幕はなきに等しかった。
ま、大和最大の柳沢15万石の居城だった郡山でも同様の施設はなきに等しいですから、況や高取おばといったところ・・・