車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

安積(あさか)開拓の歴史に触れる in 福島県郡山市

2024年10月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市、郡山市、苗代町にまたがる断層湖「猪苗代湖(いなわしろこ)」。日本国内で4番目に広く、福島県のシンボルの一つとされ、湖水が澄んでいることから「天鏡湖(てんきょうこ)」とも呼ばれる猪苗代湖。

不毛の土地と云われた安積原野に水を流すため、猪苗代湖から流れる阿賀野川水系一級河川・日橋(にっぱし)川の上流に建設された「十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん)」。近代日本の国営農業水利事業第1号といわれる安積(あさか)疎水はここから始まりました。

江戸時代、奥州街道の宿駅が置かれていた郡山。開成館に展示されていた当時の地図を見ると、宿場町の周囲には「不毛」と記された広大な原野が広がっており、それは、時に水争いも起こる程の慢性的な水不足によるものでした。(不毛の文字部分🔴表示)

「阿部茂兵衛像 」「戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失。明治5年(1872)、福島県典事中條政恒は「開拓告論書」を出し、その政策を推し進め、物産方(金融業)阿部茂兵衛鴫原弥作、橋本清佐衛門を加えた4人で話し合い、開成山開拓(大槻原開拓)の意思を固めた。阿部茂兵衛を中心に富裕商人25人が集い、明治6年(1873)に「開成社」を設立。阿部茂兵衛を初代社長として開拓事業に尽力。開拓地までの道を作り、灌漑用水地(現五十鈴湖)を造成。心の拠り所として開成山大神宮を勧請、開拓事務所として開成館を建設。この開拓で、新村桑野村(現開成地区)が明治9年(1876)に誕生した。」現地案内より

福島県典事『中條正恒』「開拓の心 :―尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を懇すれば一寸の幸あり」

「開成山大神宮」の正面鳥居の南側に建立された「入植者の碑・旧二本松藩士族 大槻原」。明治6年3月、福島県令の『安場保和』は二本松に出張し、安積開拓への移住を勧奨。それを受け、大槻原に28戸、対面原に11戸が移住。割り当てられた土地は久留米藩士族などの半分に過ぎなかったといいます。開拓村は後に「桑野村」となって独立。(全国9藩から郡山に移住した士族たちが安積原野を開拓した場所を示す「入植者の碑」は、市内10箇所に設置されています)

「中條政恒翁頌徳碑:元米沢藩士。明治5年(1872)福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、「開成社」の協力を得て明治9年に桑野村を誕生させた。この荒野開拓の成果が認められ、明治12年から国の事業として安積疏水の開削と、安積野開拓が進められ「安積開拓の父」と呼ばれた。」碑文は大久保利通の長男利武、彫像は北村西望作。

福島県は、旧二本松藩士の授産と養蚕による振興を目的として桑畑の造成を。開成社は、米の増産を目的とした溜池の築造と水田の造成を・・福島県の告諭書に集う開拓者たち。この開拓により、明治9年(1876)までに水田76ha、畑140ha、ため池54ha、宅地25ha、道路23haが造成。郡山市指定史跡「安積開拓発祥の地」碑と「明治天皇桑野行在跡碑」

「安積野開拓顕彰碑」。題字は『松平勇雄元福島県知事』。撰文は『高橋堯元郡山市長』。碑についての説明文には入植藩一覧も記されています。

刀を鋤に持ち替えて不毛の大地に挑む父と息子。傍らに寄り添う妻は乳飲み子を抱き幼子の手を引く・・レリーフは当時の入植者たちの姿を写し取った物でしょうか。

碑の台座に嵌めこまれた開拓者の故郷の玉石。それぞれの石の旧藩名は、当時の9つの自治体の酋長が銘記。棚倉藩・会津藩・二本松藩・鳥取藩・久留米藩・米沢藩・松山藩・「大槻南原・塩の原を担当した土佐藩」「対面原・青田原の開拓を担当した岡山藩」・・期せずして二人の故郷の石が並んでいる事に、不思議な縁を感じさせられました。

安積疎水の開削は、もともと日本海に注いでいる猪苗代湖の水を、奥羽山脈を掘り抜いて郡山周辺の安積野に導き、水不足の原野を沃野に変えようという、わが国初のプロジェクト。本格化したのは明治9年(1876)に福島に立ち寄った内務郷『大久保利通』が、福島県典事『中條正恒』の疎水計画を聴取したときから始まりました。 

「開拓者の群像」左から『中條政恒』『大久保利通』『ファン・ドールン』
「安積原野の開拓はこの地より創まる」ーかつて奥州路の小宿駅に過ぎなかった郡山は、明治の初期、この地の富商らが結成した開成社と、士族授産を目的とした明治政府直轄の大規模開拓により、太古以来の安積原野がことごとく開拓された。さらに明治十五年、有史以来初めて猪苗代湖水をこの原野に東注した安積疏水の完成は、今日の郡山市発展の原動力となった。 われらは、この地に開拓精神発揚のシンボルとして、「開拓者の群像」を設置し、先人に感謝しその偉業をたたえ、これを後世に伝えるものである。 1992年10月 郡山市」

明治15年の通水式で農商務大輔として出席した『品川弥二郎』が詠んだ【 岩が根を 砕きて落す 猪苗代の 水は黄金の種となる覧 】

訪問日:2016年6月26日

 

コメント (2)
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