延徳元年(1489)、鹿島新當流の創始者『塚原卜伝』は、この鹿島の地で誕生しました。 父祖伝来の鹿島古流に加えて「天真正伝香取神道流」を修め、鹿島新当流を開いた人物として、日本の剣聖史に名を残す人物です。
鹿島神宮に程近い場所、さして広くは無い広場の一画に「剣豪 塚原卜伝生誕之地」の幟と共に、彼の銅像が建立されています。
何時の時代に建立されたものか読み取れませんが、過ぎて来た年月を感じさせる「塚原卜伝顕彰古碑」。
また、北茨城市出身の詩人『野口雨情』が、当地の宿に宿泊の折りに揮毫した歌碑もあります。
【鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である『卜部覚賢(吉川覚賢)』の次男として、常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれた『塚原卜伝』。卜伝は号で、実家の本姓の「卜部(うらべ)」を由来とする。実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学び、後に武者修行の旅に出、己の剣術に磨きをかけた】Wikipediaより
「鹿島史」によれば、『卜伝』は元亀2年(1571)2月11日に八十三歳で死去したとされています。 鹿嶋市須賀、のどかな田園地帯の一画に『塚原卜伝』の墓があると知りお参りに来ましたが、案内板はしっかり観光地風味😅
小高い丘陵の上の墓所までは、「塚原卜伝生誕500年記念」で整備された参道石段が続き、私の頼りない足元でも無事に上る事が出来ました。
かってこの須賀塚原の地には、塚原家の菩提寺「梅香寺」がありましたが火災によって焼失。案内板の前に並ぶ小さな「無縫塔(むほうとう)」は、梅香寺の僧侶たちの墓でしょうか?
今になお、剣聖と謳われる『塚原卜伝』ですが、その墓は決して大仰ではなく、むしろ拍子抜けするほど質素なものでした。ですが墓前には、まだ新しい花が手向けられています。墓前の賽銭箱がいささかの違和感を感じさせますが・・きっと墓の整備などに使われるのでしょう。
墓石には向かって右に「寶剣高珍居士(卜伝の戒名)」、左に妻「仁直妙宥大姉(妙の戒名)」が刻まれています。 この時代に連名の夫婦墓が珍しいのか普通なのか分かりませんが、心が温かくなりました。🙏🙏
『卜伝』とは無関係なのですが、北浦を望む四谷墓地の外れに「天狗党の墓」があると聞き、お参りしました。 江戸時代末期、攘夷を掲げて挙兵した天狗党は、一部が鹿島に結集し、幕府軍と抗争を開始。元治元年(1864)に幕府軍に捕えられ、23名が打ち首となり、馬捨て場に運ばれ埋葬されました。
時代が移り明治11年(1878)頃に、有志により「殉難諸士乃墓」碑が建立。 誰もが己の信じる正義の為に戦った・・その結果はどうであれ、私は有志の方々に哀悼の念を捧げます。立場は違えども、誰もがこの日本という国を、心底、大切に思って行動したのです。
数年前に訪ねた「白虎隊の墓」、そこに書かれた由来を読んだ時に感じた、あの時と同じ想いをここでも感じます。
話がそれてしまいましたが、鹿島神宮参道の「卜伝にぎわい広場」には、『卜伝』の顔だし看板があります。 多分に某局のドラマを意識したと思われる『塚原卜伝』と、卜伝の妹『真尋』の二人のようですね。
訪問日:2014年5月17日&2019年3月13日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます