宇部市中宇部小串東に鎮座される「宇部護国神社」。御祭神は長州三家老の一人『元宇部領主福原越後公』。禁門の変で戦死された家臣、日清日露戦争から大東亜戦争で亡くなられた兵士の御英霊、公務に殉じられた消防士の御霊三千四百三十柱が祀られます。
『福原越後元僴公(ふくばらえちごもとたけこう)』像と辞世の句
【くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする】
由緒「幕末、元宇部領主:福原越後元僴公が幕府との戦い「禁門の変」の敗退により、幕府より第一次長州征伐が下命され、第一次長州征伐回避、藩存続のために責任を負わされ、元治元年十一月十二日岩国の龍護寺に於いて自刃された。翌年慶応元年五月十六日幕府との戦いに於いて犠牲となられた越後公の招魂祭を初めて藩の許可を得て琴崎神社で斎行し合祀したのが創始とされる。慶応二年(1866)11月19日に崩し山(現:維新山)に社殿を建立、翌慶応三年(1867)12月5日琴崎神社より越後公の霊魂をご遷座し現在に至ります。藩の許可を得て招魂祭を斎行した歴史の延長線上に東京招魂社(現、靖国神社)が建立された事から、旧称:維新招魂社、現在の宇部護国神社が靖国神社の源流と言われる所以である。」公式HPより
「維新招魂社」跡に立った時の感覚は、何と表現すればよいのか言葉を持ちません。目を閉じ手を合わせていると、不意にふ~わりと何かに包まれたような心地になり、そのまま・・何故か画像に残す事を失念していました。
清々しい日の丸の旗が掲げられた拝殿。
「大東亜戦争忠霊塔」
「日露戦役紀念碑」揮毫:山縣有朋
私たちはこれまでに幾社もの社寺に参拝させて頂き、御朱印を頂きました。会話が可能な時は、お寺様であれば宗派を持たない事を告げたうえで、神社であれば、今生の別離れの時に共に旅立つ道連れとしたいのだと告げて。頂いた御朱印にはその時々の私たちの生きた証があります。だから御朱印の扱いが雑な社寺は、どれほど由緒があろうと、どれほど立派であろうと心からの崇敬の念が薄れてしまいます。こちらに参拝させて頂いた時、宮司様は所用で出かけておられ、奥様がわざわざ連絡して下さったのですが・・宮司様は私たちに多少時間が掛かりますがと断られたうえで・・白小袖:白袴に御着替えになり、墨を摺り朱印帳に向かって下さったのです。その姿勢にどれほど心打たれたか・・たった二人の参拝者の為に礼を尽くして下さったそのお姿は、今でも忘れる事はありません。このような宮司様に護られる御祭神の皆様方に改めて感謝の祈りを捧げてまいりました。
参拝日:2015年11月12日
昨夜は雪かきして疲れたのに
朝起きたら、どっかり雪が積もっていましたΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン
これは昨日の疲れも残っているけど
後でしっかり雪かきしなければなりません
憧れのようなものを感じますが
実際に生活される方には
ご苦労が多いと思います。
連日の雪かき 頑張って下さい!!
だんちょうさん、ファイト!!
毛利氏の祖は鎌倉幕府で文官トップだった大江広元で以来毛利家は元を諱にすることが多い。
一方の福原氏も途中で養子が入っているものの同じ大江広元を祖とする長井氏傍系。
特に毛利元就の生母が福原氏の出だったこともあり大名化以降の毛利家の中でも筆頭格の重臣となりました。
長い歴史の中で連綿と繋がってきた
・・・それはやはり「絆」と呼ぶものでしょうか。
山口県の旅では、頻繁にお目にかかった毛利家の名前ですが
福原氏の名がここまで表に出ている地は他には無かったような気がします。
「御朱印の扱いが雑な社寺は、どれほど由緒があろうと、どれほど立派であろうと心からの崇敬の念が薄れてしまいます。」
同じ思いをしておりますので、御朱印を手にされたtononeko殿が宮司様と並ばれた写真に感動いたしました。
「禁門の変」を経て、日清、日露戦争、大東亜戦争と多くの戦に命を捧げた方々を祀る由緒正しき神社だと知れば、ますます宮司様の心遣いが伝わってきます。良い旅をされましたね。
この時ほど感動した事は有りません
神社の神髄は
決して豪華な社務所や華美な境内ではない
御祭神に対してどのように向かい合っているか
それに尽きるのではないかと思いました。
御朱印はただの記念スタンプではない
その私の想いは決して間違っていない
そう感じられた出来事でした。
本当に有難い経験をさせて頂きました🙏