承平5年(935)2月、『平将門(たいらのまさかど)』は自らを新皇として朝廷に反旗を翻し、京の都の貴族たちを震撼させました。将門の勢いに恐れをなした国司らはこぞって逃げ出し、やがて『将門』は関東全域を手中に収めます。 天慶2年(939)、朝廷は将門の乱を鎮めるため、『寛朝(かんちょう)大僧正』に京の高尾山神護寺の護摩堂にあった「不動明王像」を与え、関東に入って調伏の祈祷を行うように命じました。『寛朝』は「不動明王像」を奉持し、難波の津から尾垂総領一本杉海岸に上陸、すぐに21日の御護摩御祈祷を開始。迎えた満願の日、不動明王の霊力のたまものか、いずくからか飛んできた矢は将門の額を貫き、将門は討死。こうして乱は平定された・・・と「成田山大縁起」に記されています。
「尾垂(おだれ)」の地は、かって雨乞いの儀式を行った際に、龍の尾が垂れた地とも伝えられています。
「成田山」の扁額がかけられた石造りの鳥居。傍らには、旧光町指定史跡の案内が添えられています。
「成田山御本尊不動明王御上陸地」
「御上陸之地」と刻まれた記念碑は、昭和35年(1960)に聖地を顕彰するため、巨石を運んで建立。 隣には一回り以上小さい「成田山御本尊 御上陸記念碑」が建立され、碑の裏には、びっしりと寄進者の名前が刻まれています!
中央壇上の「不動明王像」は、1998年の成田山開基1060年記念事業として建立。火炎光背を背に、降魔の三鈷剣と羂索をもち、すっくと立つその姿は、まさしく仁王立ち。
海上安全と万物共生を願い成田山新勝寺によって建立された「波切不動尊」。その姿は猛々しく、でも決して恐れや危険を感じさせるものではなく、人智を超えた大いなる力を秘めているように見えます。見つめる先にあるのは、砂塵を吹き上げて過ぎてゆく風、飽く事なく繰り返される太平洋の波。
勝者によって作られる歴史の中で、将門と朝廷のどちらに理があったのか、それは分かりません。 不動明王の力が将門に優ったのか、時の勢いが彼を見放してしまったのか・・全ては過去。 町中と違ってこのあたりはまだ桜の花は少なく、それだけに僅かな花の姿がより可憐に見えます。
鳥居の傍に見かけた碑は上陸地とは無縁の、昭和36年(1961)1月に建立された『市原幸治郎』「殉職碑」。
碑文には、遊泳中に溺れた子供たちを救う為に、命を落とした氏を悼む言葉が記されています。 そうと知って耳を澄ませば、打ち寄せる波の音はより激しく、頬を打つ風も冷たく感じられます。
訪問日:2019年3月10日
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