車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

能登金剛~其の二 in 石川県志賀町富来

2018年02月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

巌門洞窟の近くに設けられた遊歩道の先、巌門園地から「碁盤島」が大きく見えます。 島上中央に湧水があり、中には義経伝説にちなむ碁盤型の岩塊が沈んでいると云われています。「義経主従が奥州に下る際、この碁盤島でしばし碁を楽しんでいたと言う伝説が今も語り継がれている」。いかにも判官びいきらしい優しい伝説です。

千畳敷から見上げた「がんもん橋」、今度は巌門園地から見下ろすような感じで眺めています。 見る分には、吊橋だろうと丸太橋だろうと、綺麗だとか素敵だとか普通に思えるのですが、苦手なものはどうしたって苦手。でも今回は、ご亭主殿の「絶対に大丈夫!揺れない」の言葉を信じて、この橋を渡りました! 橋の上からの眺め?そんなもんあるわけないです!!

そんな気の毒な私の為に(笑)ご亭主殿が橋の上から写してくれた千畳敷の遊歩道。

鷹の巣岩の岩肌。あの黒っぽく見える穴が鷹の巣跡らしい・・・

暫く巌門園地を歩いてゆくと「名勝能登金剛 猪鼻崎」の表示板が立つ展望地に到着。 言われてみれば、イノシシの鼻のようにも見える岬が右手に見えています。

「能登金剛」を一躍メジャーにしたと言われているのが『松本清張』の推理小説【ゼロの焦点】。作中に登場するヒロインの悲運を美しく詠いあげた歌碑もあります。ですが歌碑の建立は、小説の影響を受けて能登金剛に身を投じた女性を哀悼するためだったとか・・・。

【 雲たれて ひとりたけれる荒波を 恋しと思えり 能登の初旅 】

駐車場に戻り、片隅に祀られている「能登金剛神社」に、旅の無事を改めて願って次なる目的地へ。

伊勢の二見岩によく似ていることから、別名「能登二見」とも呼ばれる「機具岩(はたごいわ)」。眺望スポットは国道249号線の「生神(うるかみ)トンネル」を抜けた先、志賀町七海にあります。

「古歌に【 織姫の たてしや磯の機具岩  綾織りかくる 波のかずかず 】太古能登部に鎮座する能登比咩神社の祭神が賊徒におそわれし時、持っていた機具を投げられた。それが飛んでこの地に至り、化して機具岩となった。この岩の祭神は淳名木入比咩命である。夕日が沈む能登二見で陰陽石が相対する真の夫婦岩である。」現地案内

機具岩は二つの岩がしめ縄で結ばれており、大きい岩が女岩、小さい岩が男岩とされています。

偶然にも巌門洞窟でお会いしたご夫婦と一緒になり、こちらでも記念写真の撮りっこ(*´꒳`*) なんかこういう出会いって単純に嬉しいですね。

2011年の能登金剛巡りはこれで終りなのですが、能登金剛にはもう一箇所、外せない名所があります。2015年5月の車泊旅で訪れた志賀町笹波にある、断崖絶壁「ヤセの断崖」。同じく【ゼロの焦点】の重要な舞台となった場所です。

「ヤセ」の言葉の由来は、作物が作れないほど「痩せた」土地であるという説が一つ。もう一つは高さ35mの断崖の先端に立って海面を見下ろすと、身もやせるからと言うもの。まずもって、35mの断崖の先端に立つという発想が、私の中では絶対に!!!有り得ないのですが(^^;) 

展望台から見える景色は、断崖絶壁という言葉とは裏腹に穏やかで、ひたすらに青く輝く海。もしかしたらこの柵の下は、見るものを震え上がらせる断崖絶壁なのかもしれませんが・・ だからと言って、それを確かめる無謀さも冒険心もなく、柵にしがみ付いて遠目の景色を楽しむだけで満足(^^;)

初夏の日差しを受けた日本海は穏やかで美しく、4年前の海の色が嘘のよう。ああ、そう言えば展望台に来る途中に見かけた岩・・まるでクマさんが蜂蜜のツボに顔を突っ込んでいるような・・・あれは何だったんだろう?

訪問日:2011年10月15日&2015年5月24日

 

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能登金剛~其の一 in 石川県志賀町富来

2018年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

福浦灯台を後にした私たちが向かったのは、「能登金剛」の代表的景観「巌門」。 国道の案内に「能登金剛」の文字が目立ち始めたところで「巌門鷹の巣岩」の標識を発見。

志賀町福浦港:国定公園能登金剛の最初の見所は、高さ27メートルの「鷹の巣岩」。岩の頂部にはマツが茂り、鷹が営巣した事からこの名がつきました。上から見下ろす鷹の巣岩周辺の景色はどこを見ても曰くありげで、気が急くったらありゃしない(笑)

能登半島国定公園を代表する景観の一つ「能登金剛」。福浦港から関野鼻までの約30kmの海岸線には、険しい断崖と荒波が作り出した奇岩が続き、「能登金剛のみち」として観光の目玉にもなっています。

駐車場に車を入れ、急き立てられる気持ちを抱えつつ(笑)待望の能登の風景を堪能する事に。 今日は随分と風が強く遊覧船はお休み。その所為もあって観光客も少ないとの話ですが、それでもかなりの人が私たちの前後を歩いています。

潮の加減で今ひとつイメージがつかみにくい「千畳敷岩」。畳を敷き詰めたように広く平らに浸食された岩場で、千畳の名の通りかなりの広さです。 波打ち際まで歩いて行ける遊歩道もあるのですが、万が一を考えてご亭主殿から「ここまで!」と足止め(-"-)。

「千畳敷岩」近くの遊歩道から見える吊り橋は「幸せのがんもん橋」「行ってみたいか?」と笑いながら質問されましたが、「ああいうのは遠目で見るのが綺麗で凄いのよ!」と、高所恐怖症の負け惜しみ(-_-;)

能登金剛の目玉の一つ「巌門洞窟」は海に突き出た岩盤にあり、波食によって形成された天然の貫通洞門。幅6m、高さ15m、奥行き60mにも及ぶ大規模なものです。

洞門の入り口はこんな感じで、ちゃんと石段も整備されており、気をつければ充分に歩けそう。 心配性のご亭主殿も、しぶしぶですが許可してくれました(^^)。

お日様が差し込む洞窟の入り口近く、岩肌にしがみ付くように映える名前も知らない植物たち。洞窟と言うのは、その語感だけで不思議なワクワク感を呼び覚まし、さしてある筈のない冒険心を掻き立てます。

とは言え、距離にすれば何ほどの事も無く、それにひたすら石段を見ながらなので感動に浸る間もなく、もう出口(笑)。

ほんのりと薄暗い洞窟を出て、そうして振り返って見る巌門。どれほどの年月があればこのような姿になるのか・・削られた岩肌には今も波が打ち寄せ、吹き付ける風は岩肌にしがみ付く松の枝をゆらせます。

初めて出会った素敵なカップルは、銀婚旅行で来たのよと嬉しそうに話してくれました。一期一会で別れてゆく他人同士、互いに写しあった記念写真は良い思い出になりました。

眼前には、私たちをここに誘った「鷹巣岩」が、白く砕ける波をものともせず聳え立ち、道路上から見る姿とは一線を画し自然界の力をまざまざと見せつけて屹立しています。

ここから洞窟を通ってもと来た場所に引き返すのも有りですが、折角なので遊歩道を通る事に。遊歩道から見下ろす巌門は、さながら『歌川広重』描く「六十余州名所図会」そのまま。

遊歩道の右手に見える「不動滝」。不動の名を冠しているところを見ると、近くに「お不動様」が祀られているのかもしれません。

まだまだ見所一杯の「能登金剛」、続きは明日のブログ「能登金剛~Ⅱ~」で(*^^*)

訪問日:2011年10月15日

 

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身代(みしろ)神社 in 石川県志賀町富来

2018年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

志賀町梨谷小山に鎮座される『身代(みしろ)神社』。御祭神は『大穴牟遅神、少名毘古那神』

【創祀年代不詳であるが古来より「延喜式内・大穴持像石神社」と称せられ、天正年中兵乱の際、社殿神器旧記等すべて焼失した。同郡町村産神と社名同名のため、天明年中より社号争論おこり論議決せず、明治6年4月「身代神社」と改称を仰せつけられる。出雲国より舟に乗りて当村に着かれた「大真石」が御神体として仰がれている。】

鳥居のうち、参道左右より神域を守護されるのは昭和17年生まれの野性的な狛犬さん一対。吊り上がった眉・・阿形さんは耳まで裂けた口。吽形さんは毬の上に手を重ねた姿勢。

一見したところ徒歩でないと無理に見えた参道ですが、幸いに上に続く道があるようなので、根性無しの二人(笑)、車での参拝としました。 思ったよりも距離があり、横着を決めて正解。駐車スペースもちゃんと設けられています。

シンと鎮まる鎮守の杜を背景に鎮まる拝殿、奥に覆い屋に護られた本殿。

拝殿前より神域を守護されるのは、皇紀26000年(昭和15年)生まれの狛犬さん一対。吽形さんは角を持ち満面の笑み。阿形さんは舌を上あごにくっつけて何をしているんだろう?

ご亭主殿が車を廻している間に、境内を探検していて見つけた「うらしま草の実」。何と言うか悪魔的とも思える色の配合・・興味深そうに手を出してきたので、「毒が有るので注意です!」と手渡したら、あわてて茂みに投げ込んでしまいました(笑)

参拝日:2011年11月15日

 

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旧福浦灯台と金刀比羅神社 in 石川県志賀町富来

2018年02月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

石川県志賀町福浦港、日本海を望む日和山の断崖の上に立つ瀟洒な下見板張りの「旧福浦灯台」

福浦灯台の歴史は古く、慶長13年(1608)に『日野資信(すけのぶ)』が港入口日和山の断崖上に篝火(かがりび)を炊いたのが最初とされている。

元禄5年(1692)にいたって、『11代:日野長兵衞』が石垣を築いて灯明堂を建て、代々灯明役としてこれを守ってきたという。現存する灯台は、明治9年(1876)に『日野吉三郎』の手で建造されたもので、日本最古の木造洋式灯台である。

(明治十一年 岩倉右大臣よりの書状写し)

高さ約5m、木造四角の建物で、内部は三層となっている。建築したのは福良住『三渡辰之丞』を棟梁とする三名の地元大工であることが、棟木に記された墨書により判明。かつての北前船時代の繁栄を物語る数少ない遺構の一つとして、貴重な史跡である。」色文字は石川県HPより

「旧福浦灯台」の近くに鎮座される「金刀比羅(ことひら)神社」。御祭神は『大物主命 ・崇徳天皇』

「創立年月不詳。讃岐国琴比羅神社より勧請し、無格社と称す。古来より福浦港漁民の信仰の中心である。」石川県神社庁HPより

海風を避ける為の覆屋内より神域を守護されるのは、明治二十八年二月吉日奉納の狛犬さん一対。吽形さんは角を持ち、阿吽さんはこのタイプに特徴の耳まで裂けた口で参拝者を迎えます。

金刀比羅神社拝殿の前に据えられているのは「町指定文化財・石造方位版」。傍らに「石質花崗岩の方位版は、弘化4年(1847)に海上安全を祈って寄進された」とあります。

境内に建立された自然石の碑に刻まれた文字は【 福浦よいとこ 入船出船 波に黄金の花が咲く 】

その傍らには福浦で歌い継がれたであろう「福浦いづも節」の歌詞。【 能登で名高い 福浦の港 入口一つで 澗が二つ 北は水の澗 上り澗で 南は大澗で 下り澗で 中でしよんぼ 藻ヶ崎 問屋つけ船 かづござる 千石船さえ 四つつなぎ 碇いらずの良港 】

コスモスの花の中に立つ白い木造灯台。はるか眼下に広がるのは「黄金の花が咲く」と謡われた福浦港。

耳を澄ませば、波音に混じっていづも節の陽気な歌声が聞こえてくるような・・・そんな錯覚さえ覚える。 能登金剛と呼ばれる複雑な形状の海岸線「能登半島外浦」は、この福浦港の日和山から始まります。

訪問日:2011年10月15日

 

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松尾神社&松尾寺 in 石川県志賀町富来

2018年02月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

志賀町町居、旧富来に鎮座される「松尾神社」。御祭神は『大山咋命、玉依比売命』

由緒【承和元年8月、山城国松尾神社より勧請。以来、町居村、草木村、日下田村の惣社として崇敬され、例祭、造営等は相寄って斎行した。明治40年1月27日村内にあった雨乞神社、神宮神社、稲荷神社、布留神社、松岡神社を合祀す。】

「本殿は室町時代後期の永禄2年(1559)頃に建立されたと推定される建物で、一間社流造、板葺。宝永元年(1704)に改修工事が行われているものの細部の組物や彫刻などが建立当時の姿を留め、能登地方に残る数少ない中世神社本殿建築の遺構として大変貴重な事から棟札2枚、旧蟇股と共に昭和55年(1980)に国指定重要文化財に指定されています。」現地案内より

「拝殿の建築年代は不詳ですが、本殿とほぼ同様な構造、手法をしているところから同じく室町時代後期に建てられたと推定。入母屋、茅葺、妻入、桁行5間、梁間3間、正面1間向拝付で外壁が板張り。何度か改修されているものの建立当時の姿をよく留め、石川県内に残る数少ない中世拝殿建築の1つとして貴重な存在で棟札1枚と共に昭和59年(1984)に石川県指定有形文化財に指定。」現地案内より

松尾神社に隣接して門を構える、北陸不動三十六番礼所三番目「高野山真言宗:松尾寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。

時間的なものもあったのでしょうが、境内はひっそりと静まり返り誰の姿も見られません。 後日ネットで調べて見ましたが由緒に関する情報は見つけられませんでした。

境内に建立されていた「弘法大師修行像」

参拝日:2015年5月24日

 

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ご当地マンホール in 石川県旧富来町(志賀町)

2018年02月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

旧羽咋郡富来町(とぎまち)は石川県能登地方の、日本海に面しいた町です。能登半島外浦屈指の良港を有し、九世紀初頭には福良津に「渤海使(ぼっかいし)」の為の客院が置かれたことが記載されています。能登金剛に代表される景勝地は能登半島国定公園として多くの小説や映画などの舞台となりました。「町の木:モチノキ」「町の花:ハマナス」「町の鳥:イソヒヨドリ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により羽咋郡富来村・福浦村・熊野村・稗造村・東増穂村・西増穂村・西海村・西浦村が発足。

1919年、富来村が町制を施行、羽咋郡富来町となる。

1954年、福浦村、熊野村、稗造村、東増穂村、西増穂村、西海村、西浦村と合併、新たに富来町が発足。

2005年、羽咋郡志賀町と合併、新に志賀町となりました。

マンホールには『粟津潔』氏のデザインで、抽象化した「海・波・山・空」が描かれています。

昭和51年(1978)9月28日制定の町章は「富来町の頭文字「と」を意匠化したものです。」

富来領家町にある「道の駅:とぎ海街道」。ここには珍しい「とぎ男爵芋のソフトクリーム」があります。 ほんの少し塩を振って食べるのですが、微妙な塩加減と芋独特の風味が不思議な味わい(笑)

道の駅の随所に展示されていた「冨木八朔祭礼(富来祭り)キリコ」のモニュメント。 神輿の道中を照らしながら行く「キリコ」の厳かな灯り、その美しさ、一度は見てみたい情景です。

撮影日:2011年10月15日&2015年5月24日

 

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ご当地マンホール in 石川県旧志賀町

2018年02月03日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

旧羽咋郡志賀町(しかまち)は石川県の能登半島、日本海に面した中央部に位置した町です。「ころ柿」の産地として知られており、初冬の風物詩として知られる吊るし柿が軒先に揺れる風景は観光パンフレット等ですっかりお馴染みです。道の駅に建立されていた「志賀疾風太鼓保存会」の碑は、この地方の先祖が筑前の国志賀島より、日本海の疾風を利用し親潮にのって来たといわれ、故郷の空を偲び太鼓を打ち鳴らして望郷の想いをいやしたことから生まれたと伝えられています。「町の木:松」「町の花:ハマナス」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、羽咋郡志加浦村・堀松村・加茂村・東土田村・西土田村・上熊野村・下甘田村・高浜町が発足。

1940年、東土田村、西土田村が合併、羽咋郡土田村が発足。

1954年、志加浦村、堀松村、加茂村、土田村、上熊野村が合併、羽咋郡志賀町が発足。

1955年、下甘田村(上中山地区を除く)が志賀町に編入。

1970年、羽咋郡高浜町と合併、新たに志賀町が発足。

2005年、羽咋郡富来町と新設合併し、新:志賀町となりました。

マンホールは地域伝統芸能獅子舞の「京振り」に登場する「獅子」と「天狗」、下に町章が描かれています。(町役場敷地内に設置)

町の花:ハマナスと共に描かれた町章は、昭和46年6月15日の制定「「シ」を鳩の形に象ったものです。」

志賀町末吉の「道の駅:ころ柿の里しか」では2011年と2015年の二度、車泊をさせて頂きました。 併設された日帰り温泉で気持ちも体もホッコリ、産直の品々は驚くほど充実して、ついつい買い過ぎて大変な事に・・(^^;)

道の駅の一画にあった「最勝柿」は、冬になれば町の特産品の「ころ柿」になります。 「ころ柿」の「ころ」は、まんべん無く陽が当たるようにコロコロと廻す「ころ」から来ています。

車で旅をするものにとって、このような道の駅は、本当にありがたく大切な場所です。  改めて、その折は有難うございました 

撮影日:2011年10月15日&2015年5月24日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 石川県志賀町

2018年02月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

羽咋郡志賀町(しかまち)は本州の日本海側、能登半島のほぼ中央に位置する町です。2005年9月1日に羽咋郡志賀町と富来町が新設合併し発足しました。「町の木:もちの木」「町の花:はまなす」を制定。

キャッチフレーズは「夢・未来の創造 笑顔あふれる能登ふれあいの郷 ~私たちが主役の新志賀町物語~」

マンホールは旧志賀町当時のもので、町章のみが新しい志賀町のものに変えられています。 デザインは志賀町の地域伝統芸能獅子舞の「京振り」に登場する「獅子」と「天狗」。

「京振り」に登場する烏帽子姿の天狗面。

2005年9月1日制定の町章は「志賀町が未来に向かって飛翔する姿を頭文字の「S」で表現しています。 雄大な日本海と能登半島のスケールの大きさや出会いと交流を外の円で、町を取り巻く豊かな環境をのSで、未来に向かう町民の心を中央の線で表現しています。」公式HPより

ちょっと不思議な姿の女の子は、志賀町マスコットキャラクター『西能登あかりちゃん』。 福浦港日和山に現存する、日本最古の木製灯台「福浦灯台」をモチーフに誕生しました。

撮影日:2011年10月15日&2015年5月24日&2018年10月15日
 

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2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「志賀町」のマンホールカードは「志賀町役場本庁舎上下水道室」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「日本海の荒波」と「獅子舞」がデザインされています。

「石川県志賀町では、能登半島中央部の外浦海岸に位置しているため日本海の荒波と空を背景に、中央には、秋祭りに神輿渡御とともに五穀豊穣を願って舞われる伝統芸能の獅子舞をモチーフにデザインされております。 赤色部分が天狗の烏帽子、青色部分が獅子の胴体部分である蚊帳を表現しております。 獅子舞は、ギョンブリ(祇園振り)、サンクズシ(三崩し)、シシコロシ(獅子殺し)などの演舞があり、笛、鐘、太鼓の音にあわせて獅子舞が奉納されます。一度、勇壮な舞を見物してみてはいかがでしょうか。 このデザインは、下水道マンホール蓋のみで使用しております。」

座標軸マンホール

配布場所展示ミニマンホール

訪問日:2018年10月15日

 

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ご当地マンホール in 石川県川北町

2018年02月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・石川県

能美郡川北町(かわきたまち)は石川県の南西、手取川北岸に位置する町です。町名の由来はそれに由来するとされています。手取川の恩恵にあずかる反面、度重なる氾濫が古くから続き、氾濫の影響が少ない小高い丘に「島」と呼ばれる集落を形成してきました。そのため、川北町には、島が付いた町名が幾つも残されています。「町の木:ケヤキ」「町の花:河原ナデシコ」「町の鳥:ヒバリ」を制定。

キャッチフレーズは「小さいからこそ キラリと輝く“ふるさと川北”」「彩が「いき」るまち 豊かな未来へ今日をつなぐ 21世紀 TOWN KAWAKITA」

明治22年(1889)、町村制の施行により能美郡中島村・草深村・砂川村が発足。

1907年、中島村、草深村、砂川村が合併、能美郡川北村が発足。

1980年、川北村が町制を施行、能美郡川北町となりました。

マンホールは、中央に町章をおいた集落排水の規格蓋のみ。

昭和22年(1947)制定の町章は村章を引き継いだもので【川北の文字をデザインしたものです。川は雄大な白山を源とする石川県最大の手取川を表して、未来への歩みを象徴。北は両岸の豊饒なる加賀平野を表して、川北町の豊かさと平和さを伝えています。川は雄大な白山を源とする手取川を表し、北は両岸の豊饒なる加賀平野を表しています。】HPより

町章と「温泉」の文字入りマンホール

「おんせん」の文字のみのマンホール

町役場内に展示されていた町の特産品。ビールや麺類、柿にシイタケと多彩。

撮影日:2015年10月19日

 

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狭野(さの)神社 in 石川県能美市寺井

2018年02月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

能美市佐野町に鎮座される、式内社「狭野(さの)神社」。御祭神は『神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)=神武天皇・素盞嗚尊、天照大御神、豊受比咩神(とようけひめのかみ)』

境内案内に【当社は往昔、佐野集落の発祥の地である峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(850)に皇室から正六位上を賜った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。明治35年5月に県社に昇格し、同年12月29日に神饌幣帛供進神社に指定され、明治40年4月に末社神田神社を合祀】

一の鳥居のうちより神域を守護されるのは、メタボ系の加賀獅子タイプ狛犬さん一対。 メタボですが顔立ちは精悍、頑丈そうな太い四肢、そして鋭そうな大きな爪。全体的な印象は・・可愛い(笑)

鳥居の奥に続く境内は鬱蒼とした鎮守の杜。流石に10月の16時半と言う時間・・のんびり参拝とはいきません。 

石工の彫刻が見事な二つの鳥居額。一つは「狭野神社」ですが、古い方の鳥居額の文字は・・

二の鳥居の内より神域を守護されるのは、すっかり御馴染みになった加賀逆立ち狛犬さん一対。「明治三十六年九月  石工・福嶋伊之助」。目に玉を用いた端正な顔立ちですが、残念な事に阿形さんの下顎には剥落が・・・

このまま壮健で神域の守護を続けられますように・・・願いを籠めて

拝殿の右手には、幹の下から幾つも枝分かれした樹齢不詳の「椎の御神木」

御神木近くより神域を守護されるのは、すらりと姿勢の良い狛犬さん一対。鳥取県の神社で何度かお目にかかっていますが・・同じ石工さんでしょうか? 体に比して以上に細い四肢が何ともアンバランスで・・でも結構好みかも。

参道左手に鎮座される「境内社・陶祖神社」。御祭神は『斎田道開(さいだ どうかい)』。釉薬の源土を発見し、赤絵細描技法を発展させた人で、九谷焼の開祖とされています。

「陶祖 斎田道開 生誕の地」モニュメント

雲をけり、軽やかに天駆ける石造りの御神馬

神馬舎の内には陶器製の御神馬。三回なでながら願い事を唱えると願いが叶うと言われています。が・・それを知ったのは自宅に帰ってからの事・・せめて境内の案内に一文加えて欲しかったと思います。

さて・・こちらの拝殿内では、御朱印は自分で印を押すようになっており、墨等もきちんと用意されています。さすがに「これです」と自筆の御朱印を紹介するのは恥ずかしいので、その様子だけ(^^;)

境内の一画に建立されていた句碑

【 その上に 白山すわる 花野かな  新田祐久】

「狭野神社」例祭後の 5月3日から5日まで行われる「九谷茶碗まつり」。九谷焼の陶祖を偲んで、 明治41年に「慰霊祭」をしたのが始まりとされています。国内外問わず全国から毎年約18万人の人が訪れ大変な賑わいをみせるという・・鎮守の杜を背景に建立された「茶碗祭り発祥の地」碑。

参拝日:2015年10月19日

 

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