車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

沼津市明治史料館 in 静岡県沼津市

2018年10月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

沼津市西熊堂の国道1号線沿いに、赤いレンガづくりの歴史的建築を思わせる四階建ての「沼津市明治史料館」。別名『江原素六(えばら そろく)記念館』とも呼ばれています。

館内には、郷土の偉人『江原素六』や、静岡徳川藩の「藩校:沼津兵学校」の資料などを展示。 また、沼津市の歴史に関する史料を収集・保存し、調査・研究の結果も展示・公開されています。

天保13年に幕府御家人の嫡子として武蔵国角筈に生まれた『江原 素六』。(彼に関しての詳細は、ネットなどで詳しく紹介されているので、そちらを参照して下さい。)資料館の敷地内に建立された胸像は、貴族院勅選議員時代と思われる『江原素六:氏』。

後に沼津に移住した彼は、旧幕臣の子弟教育のため沼津兵学校などの設立に尽力。 資料館の玄関前一画には沼津兵学校の門柱が保存され、往時を忍ばせています。

もう一つ、沼津の歴史を語る上で忘れてはならないものが、狩野川に隣接した水野藩五万石の『沼津城』。城址である本丸跡は現在中央公園として整備され『沼津城本丸址』の碑があるのみ。当時の面影を残すものは何も残されてていません。わずかに・・沼津城の堀の「石垣」として使われていた二つの安山岩石のみが、往時を物語ります。

門か何かを思わせる建造物は、一見すると車寄せのようにも見えますが、正体は不明。おそらく何某かの歴史に関わる物であろうと思うのですが・・

謎の建造物の横には、何時頃のものか分らないほどすっかり錆付いた古い井戸のポンプ。元々この場所にあったものなのか、資料館として整備された時に置かれたものなのか・・やっぱり不明(-_-;)。

最後は、資料館の裏で見つけた句碑。崩し文字の上に達筆すぎて、作者も句の内容も読み取れません。一応色々と検索したのですが、判読できた句の一部で探しても、まるでヒットしません。こういうのは非常に消化に悪い(^^;)

訪問日:2016年12月9日

 

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沼津御用邸記念公園~其の二 in 静岡県沼津市

2018年10月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

松林の散策路から見える「西附属邸」は、予想外に普通の佇まい。ちょっとした大店のお屋敷でもこれくらいの離れなどは普通にあったのではないかと思える程、質素でこじんまりとして見えます。

「西附属邸は明治38年、皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮、高松宮)の御用邸として設けられたことに始まります。その後数回の増築が行われ、大正11年には現在の形になりました。松林に囲まれた約、10,000平方メートルの敷地に建つ総面積1,270平方メートル、部屋数26室の木造平屋建て和風住宅です。昭和20年7月の沼津大空襲によって本邸が焼失した後は、この西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和天皇をはじめ、多くの皇族方 に利用されてきました。」沼津市HPより

内装はほぼ当時のままのものが使われていると言うことで、何でもない場所にも見所が一杯。 たとえば玄関内部の電灯とか、当時は高価であったガラスと、細工鋳物の取り合わせの美しい事。それでいて決して華美でない落ち着いた調度の数々。

少し意外な驚きを感じつつ西庭に面した廊下に立てば、磨き込まれたガラス戸越しに程よいお日様の光が差し込み、足元を優しく包みこみます。

窓越しから見る庭の佇まいは、多分私たちがさっき立っていた辺り。この景色を昭和天皇もご覧になられたのかなと思うと、それだけで美しいものがより美しく見えてくる(^-^) むろん逆もまた然で、人の心理って面白い。

窓越しに見る沼津垣と紅葉

窓の向こうに見える建物、多分棟続きだろうと思うけれど、想像以上に質素に見える。

案内の女性の説明に感心したり納得したり。決して触れる事のないやんごとなき方の往時を偲ばせて頂き、貴重な時間を過ごす事が出来ました。帰り際に三人一緒にと写して下さった記念写真。何度見かえしても懐かしさでいっぱいです。

「西附属邸」を辞して、周囲を少しウロウロ。本当はまだここに居たいのだけど、予定は目白押し。次の目的地で過ごす時間が無くなります。最後は本邸正門前の門番所。

門番所に護られるように存在する「青銅門」。かつてこの場所には、当時の建築技術の粋を集めた御用邸本邸がありましたが、1945年の沼津大空襲により焼失。本邸正門だったこの青銅門だけが残されました。ドイツのゾーリンゲンという街で特別につくられた青銅門。その重厚さや美しい意匠が、失われた本邸の面影を私たちに語り掛けてきます。

木の感じからして「梅の古木」?咲いたら見事だろうな・・・

記念公園のラストは、西附属邸正門の右側に植えられていた「根上り黒松」。樹高20m・幹周4m。推定樹齢は400年。

まるで大地を這う巨大な蛇のように、四方に触手を伸ばす何本もの根。自然が見せる不思議に見送られて、さぁ次なる目的地へ(⌒∇⌒)

訪問日:2016年12月9日

 

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沼津御用邸記念公園~其の一 in 静岡県沼津市

2018年10月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

政・財界人の別荘が多く、また皇室の御用邸もあった事から「海の有る軽井沢」と謳われた沼津。沼津市下香貫島郷にある「沼津御用邸」は、明治26年(1893)に『嘉仁親王(大正天皇)』の御静養先として造営されました。

昭和20年(1945)7月の沼津大空襲で本邸を焼失、昭和44年(1969)12月に御用邸は廃止されて沼津市へ移管。翌年7月、残された東附属邸と西附属邸を中心として周囲の緑地と共に、沼津御用邸記念公園として開設。

記念公園入り口の左右に建てられた白塗りの門番所は、本邸正門前と併せて三か所あり、沼津御用邸のシンボル的存在として、菊の御紋と共に記念スタンプのデザインに採用されています。

友人Jさんが一緒の沼津御用邸スタートは、冒頭の「東附属邸の正門」を経て「西附属邸」の見学・・の予定でしたが、開館時間には間があるという事で、起破風(むくりはふ)屋根の玄関だけを画像に納めて、先に園内の散策へ。

西付属邸から離れた位置に「調理室」と並んで「湯沸所(ゆわかしじょ)」があり、案内には ここで沸かしたお湯を調理室や御料浴室に運んで用いたとあります。 御殿の中ではなるべく火気を使用しないようにとの配慮から、湯沸所は御殿の外なのだと聞いて「おお、なるほど!」「だよね~、何かあったら・・じゃすまないものね」とまぁ、賑やかなこと。気分は、まんま遠足。御亭主殿は完全に無視(笑)

湯沸所と道路を挟んで幾何学的な美しさを見せる「沼津垣」。駿河湾に面した沼津市付近は西風が強く、それを防ぐために古くから沼津垣が利用されてきました。使われる竹は「箱根竹」と呼ばれる東根笹(あずまねざさ)の一種で、箱根周辺に特に多く見られたそうです。細い雌竹を十数本ずつ束ねて杉綾模様に編み込まれた沼津垣、頑丈さだけではない美しさに思わず惚れ惚れ。

手入れの行き届いた園内を更に進み、見事な黒松の林に守られたような遊歩道を抜けて芝生広場へ。

芝生広場を抜けて更に千本松原に連なる広大な黒松の林へ。何しろ敷地面積は104,402.1平方メートル。とにかく広い。女二人のキャピキャピに文句も言わず付き合ってくれるご亭主殿、う~~んやっぱり良い男(^◇^)

耳をすませば、かすかに聞こえてくる潮騒。沼津の御用邸をこよなく愛されたと言う昭和天皇が、多分歩かれた筈の同じ道を私も歩いている・・正直言って感動してます。

そして運が良ければ北西の方向には富士山が見える・・富士山が見える、見える筈・・・でも見えない。

有刺鉄板の柵の中ではこれ以上体を乗り出せないし、どうしても富士山が見たければいったん外に出て改めてこの遊歩道を行くしかないみたい。

とぼとぼと引きかえす松林の中・・そこで見つけた謎のコンクリート蓋。もしかして汚水用のマンホールかもと思ったのだけど、どこにも手掛かりがない(-"-)

後ろ髪惹かれながら黒松の林を抜けて進むと「茶室:駿河待庵」が見えてきます。

「茶室:駿河待庵」は、日本最古の茶室建造物である「待庵(国宝)」の写しだそうです。 

実はその「待庵」がある大山崎町に何度か行きながら、まだ一度も塀の内側の実物を見た事がありません。見学する為には、1か月前までに往復はがきでの予約が必要などとハードルが高く、いつかはと思いながらも・・・多分このままの気がする。と言う訳でこれは本当にラッキー。

そこから引き返し、流水池を見ながら園路を進んでいくと「東附属邸」の建物が見えてきました。今回こちらの見学は予定していないので、屋根だけでも見られてお得・・だったのかな?(笑)

訪問日:2016年12月9日

 

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千本浜公園 in 静岡県沼津市

2018年10月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

狩野川河口から田子の浦にかけて広がる「千本松原」。松の常緑と白雪をいただいた富士山、そして駿河湾の彼方に沈む夕陽といった美しい自然で知られ、白砂青松100選にも選ばれた景勝地です。

でも二度の訪問にもかかわらず、松の常緑以外、白雪をいただいた富士山も、青く煌めく駿河湾もお目にかかれていません(-_-;)

その一画に建立されているのは、千本松原の恩人と伝えられる『増誉上人(ぞうよしょうにん)像』

「千本山『乗運寺』の開祖で、名を『長円』。天正8年(1580)武田対北条の激しい戦いが行われた時、無惨にも千本松原の松は伐り倒されてしまいました。荒廃したこの地にやって来た旅の僧(長円)は、汐風害に苦しむ人たちの姿を見かね、一本一本お経を唱えながら松苗を植えたといいます。」案内より抜粋

2011年に見た、土砂降りの駿河湾の海岸線・・・・空も海も砂浜も灰色で、心の中までびしょ濡れになった事を突然思い出してしまいました(-"-)。

過去の愚痴はさて置き(笑)、『角田竹冷(つのだ ちくれい)』亡くなる前日の句碑。【時は弥生 瓢(ひさご)枕に 鼾(いびき)かな】

「観海学人(かんかいがくじん)文学碑」と、手前に「魚見の松跡」「夜道空〇外興 君行且看板松風不動 名月照衣寒観潮〇客吟」。文学碑の方は難解すぎてほぼ解読できませんが・・意味は多分(-_-;)。「夜道を行くのは殊の外興がある。君と歩き風のない松林を行けば 名月に照らされた衣も寒々と見える」・・・何か・・違う(-"-)

千本松原を後にして、沼津市大手町1丁目に見かけた「西周レリーフ」。津和野の西周がなぜ沼津に??。と思ったのですが、沼津兵学校頭取を務めた縁によると聞いて納得。

ラブライブのマンホールを探している時に見かけたお地蔵様。台座の構図がとても特徴的ですがそれ以上の事は不明。マンホールカードとマンホール撮影だけの予定だったのに、それでも何かしら見て来たんだなと改めて思う(笑)

訪問日:2018年11月14日

 

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ご当地マンホールとマンホールカードB in 静岡県沼津市

2018年10月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

昨日に続いての沼津市マンホール紹介。トップ画像は「駿河湾沼津上りSA」から遥かに見える「駿河湾」。

アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場する主人公たち九人の後姿と駿河湾がデザインされたマンホール。カラーマンホールは、全て「沼津仲見世商店街」内に設置されています。

今回のマンホールを見て思ったのは、デザインの多様さにも関わらず、きちんと鋳物のマンホールで作られているという事。昨今流行りの安易なシールを張り付けてのマンホールほど、マンホール好きをがっかりさせるものはありません。沼津市のマンホールによる観光企画、応援します。

主人公たちのカラーマンホールは、仲見世アーケードに四か月ごと三枚ずつ交代で設置されます。

「国木田 花丸」

沼津駅バスターミナル付近に設置・「国木田 花丸」モノクロ版

「津島 善子」

「津島 善子」モノクロ版

「黒澤 ルビィ」

沼津港バス乗り場前の舗道に設置・「黒澤 ルビィ」モノクロ版

千本浜公園内に設置・「黒澤 ダイヤ」モノクロ版

多分・・沼津市役所近くの歩道に設置・「渡辺 曜」モノクロ版

ピコ21駐車場看板の近くに設置・「桜内 梨子」モノクロ版

沼津駅アーケード内竹沢電機店前に設置・「小原 鞠莉」モノクロ版

沼津駅アーケード内設置・「高海 千歌」モノクロ版

アカデミー看板のあるビル近くの歩道に設置・「杉浦 果南」モノクロ版

主人公達が通う「浦の星女学院」の校章がデザインされたマンホール

沼津市が舞台のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」。沼津市ではこれをきっかけに、マンホールを設置した場所を新しい観光スポットにしようと計画していましたが、心無い何者かによって9枚のうちの3枚に白色スプレーを吹き付けられるという事件(これは器物損壊と言うれっきとした犯罪です)が発生。 どのような意図があったのか知る由もなく、また知りたくもありませんが、恥ずべき行為であるという事実をマンホーラーの一人として発信し続けたいと思います。

撮影日:2018年11月14日

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2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「沼津市B」のマンホールカードは、「沼津観光案内所」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「ラブライブ!サンシャイン!!のAqours」がデザインされています。

「本市を舞台とした作品「ラブライブ!サンシャイン!!」に登場するスクールアイドルグループ「Aqours(アクア)」をデザインしたマンホール蓋です。 同作品は、本市の内浦地区で結成された「Aqours」の奮闘と成長を描く物語です。 このマンホール蓋は、クラウドファンディングを実施し、ファンの皆さんの協力により制作されました。 この他にも、同作品のオリジナルデザインマンホール蓋が市内各所に設置されていますので、ぜひ探してみてくださいね!」

訪問日:2018年11月14日

 

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ご当地マンホールとマンホールカードA in 静岡県沼津市

2018年10月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

沼津市(ぬまづし)は静岡県の東部、伊豆半島の付け根西側に位置する市です。 日本百名山の一つ愛鷹山の麓に位置し、古来より東海道の陸路と海路を繋ぐ交通拠点として、また、東海道の宿場町として栄えてきました。市名の由来は富士山からの地下水のため、沼が多かったことに由来。「市の木:松」「市の花:ハマユウ」を制定。

キャッチフレーズは「人と環境を大切にする 県東部広域拠点都市・沼津」

明治22年(1889)、町村制の施行により、駿東郡沼津町・原町・浮島村・楊原村・片浜村・金岡村・大岡村・静浦村・愛鷹村・大平村・内浦村・西浦村、君沢郡戸田(へだ)村が発足。

1896年、郡制の施行により、君沢郡が田方郡に編入。

1923年、駿東郡沼津町と楊原村が合併、市制を施行し沼津市が発足。

1944年、沼津市と駿東郡片浜村・金岡村・大岡村・静浦村が合併。

1955年、沼津市と駿東郡愛鷹村・大平村・内浦村・西浦村が合併。

1955年、駿東郡原町と浮島村が合併、改めて原町が発足。

1956年、原町から旧浮島の三地区(境、船津、西船津)が分離。

1968年、沼津市と駿東郡原町が合併。

2005年、沼津市が田方郡戸田村を編入、現在にいたっています。

マンホールには「大瀬崎から望む愛鷹山と富士山」「市の花:ハマユウ」「市の木:松」がデザインされています。

沼津市水道部展示マンホール

狩野川西部浄化センター展示マンホール

上記デザイン・二色カラーのマンホール

沼津市井田地区のマンホールには、「煌めきの丘から見る富士山と菜の花」「市の木:松」「菜の花の里」の文字がデザインされています(沼津市水道部展示マンホール)

旧戸田村のマンホールには「帆船ヘダ号」「御浜岬から見る富士山」「ハマユウ」がデザインされています。(沼津市水道部展示マンホール)

(※)旧戸田村は未訪問の為、実設置のマンホール写真はありません。

昭和2年8月4日制定の市章は、現存する静岡県の市章としては最古のもので、「ヌマヅの「ヌ」に、名勝として名高い千本松原の松葉を組み合わせて図案化したものです。」公式HPより

「仕切弁」

「制水弁」

「防火貯水槽」

「消火栓」

「空気弁」

上に社章、中央の赤い部分には「静岡ガス」の文字。サイズとしては比較的大き目の角蓋。

撮影日:2011年11月7日&2016年12月8日&2018年11月14日

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2017年8月1日、第5弾として全国50自治体で52種類(計191自治体222種類)のマンホールカードの配布が開始されました。沼津市のマンホールカードは、【平日】沼津市役所 水道部 水道総務課 休日】水道部庁舎守衛室で頂けます。

1993年に設置されたマンホールには「駿河湾越しに見る富士山と愛鷹山」「市の花:はまゆう」「千本松原の松」がデザインされています。

【 沼津市のマンホール蓋は、市の花「はまゆう」、木「まつ」を手前に配し、その奥に沼津の海岸線から望む「駿河湾」、「愛鷹山」、「富士山」をデザインしたものです。 「まつ」の絵は、歌人・若山牧水に愛され、日本百景にも選ばれた「千本松原」をモデルに描きました。 駿河湾は沼津に面した日本一深い湾であり、タカアシガニやダイオウグソクムシなどの深海生物が息づくことでも知られています。 富士山は、言わずと知れた日本の象徴。 愛鷹山はその富士山の南に位置する標高1,187メートルの山で、測量の一等三角点が設置されていることから、マニアも含めて多くの登山者が集まる山です。】

訪問日:2018年11月14日

 

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柿田川湧水群 in 静岡県清水町

2018年10月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

清水町を流れる全長約1.2kmの「柿田川(かきたがわ)」。日本で最も短い狩野川水系の一級河川で、かつては泉川と呼ばれ、その周辺地域は泉郷と呼ばれていました。水源の湧水は主要なもので数十カ所もあり、大量の湧水を水源とする、日本でも稀有な川として知られています。

清水町伏見にある柿田川公園、その「わき間」からの湧水量は、1日約100万トンとも言われます。100万トンと聞いても全くピンときませんが、凄い量であることは何となく・・・(笑)。その「わき間」が見られる展望台は、第一、第二とありこれは下調べ不十分の予想外。流石に11月の4時半ともなると、お日様の恩恵も怪しく、さらに駐車場は5時に施錠ですと言われ、一番近い第二展望台だけに。

高所嫌いでへっぴり腰の私ですが、それでも真上から見るこの景色には恐怖を忘れさせるほどの力があります。

でも・・・私が写すと、青い水を張った手水鉢にしか見えないのは何故??

再々チャレンジの根性は無いし、時間も無いので、展望台はご亭主殿に譲って・・

私が写すと手水鉢にしか見えない丸い枠は、かって紡績工場が井戸として利用していたもの。 高価でないコンデジの画像からでも、この引き込まれそうに神秘的な「青」が分ると思います。

観光ページなどではコバルトブルーと紹介していた「青」・・大好きな和名だと何色だろう? どの色名が一番合うのか・・馬鹿みたいですがこの色を形容するのに数十分費やし(^^;) 結局、古くから知られた藍染めの一つ「縹色(はなだいろ)」に落ち着きました。

こちらは「日本書紀」にも登場する「深縹(こきはなだ)」。藍色よりも薄く、浅葱色よりも濃い色。 それは、湧き水に押し上げられて渦巻く砂と、木々に跳ね返る日の光が作り上げた神秘の色。

もっと先まで行きたかったけれど、こんな時間になるようなコース組をしてしまった自分の責任。 また次回・・・があるのなら、第一展望台からの「わき間」も湧水広場の「わき間」も制覇する!と言いながら、二度目の清水町来訪では、コースを大きく外れていた為、泣く泣く断念・・昼間の光の下はどんな青になるのだろう・・春の日差しの下では・・と、今だに恋焦がれております。

しぶしぶ(笑)と駐車場に向かう途中に見かけた「湧水の池」。手を浸してみると・・何だろう?柔らかくほんのりとした冷たさ。

池の側には、大分県中津市出身の歌人で、『若山牧水』の高弟として多数の研究書を執筆した『大悟法利雄氏』「柿田川賛歌・記念碑」

【 天地(あまつち)の ゆたけき心 ここにあり  この富士の山  この柿田川 】

かってこの柿田川の豊富な湧水を求めて多くの工場が進出しました。工場排水のたれ流しによる水質の悪化、護岸のために川縁がコンクリートに覆われる等々で、清流の面影は消え失せ、魚も住めない状態になったと言います。
それがこれほどの美しさを取り戻し、日本三代清流の一つとまで言われるようになった事実。 この国に住み、美しい自然の恩恵の中で生かされている身には、ただ感謝の想いしかありません。

水汲み場で頂いた柿田川の湧水は、車泊の旅を癒してくれるコーヒー用として大活躍。富士の湧水もですが、柿田川の湧水もとても柔らかくて美味。

長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられ、国の天然記念物にも指定された柿田川。柿田川湧水群は昭和60年(1985)7月に「名水100選」に、また「日本の秘境100選」にも選定されています。

訪問日:2011年11月7日

 

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ご当地マンホール in 静岡県清水町

2018年10月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

駿東郡清水町(しみずちょう)は静岡県東部、伊豆半島の付け根に位置する温暖な町です。沼津市、三島市、駿東郡長泉町に隣接。町の中心地域を柿田川が北から南に流れ、町内で町を南東から西に横断する狩野川に合流します。「町の木:椎」「町の花:菊」「町の鳥:カワセミ」を制定。

キャッチフレーズは「笑顔があふれ ここちよく 住み続けたくなるまち・清水町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、駿東郡清水村が発足。

1963年、清水村が町制を施行、駿東郡清水町となり現在に至ります。

マンホールには「富士山」を背景に「柿田川と在りし日の眼鏡橋」が描かれています。(狩野川西部浄化センター展示マンホール)

実設置のカラーマンホールは、清水町役場近くのタイル歩道にあります。

昭和40年10月30日制定の町章は「清水町のシンボルである「水」の周りを、「し」が囲んでいるデザインを選定。」公式HPより

清水町制施行50周年を記念して誕生した、清水町イメージキャラクター『ゆうすいくん』。日本3大清流の柿田川湧水で生まれ、柿田川の水のような美しい心で愛と平和と笑顔のために戦うヒーロー。清水町出身の絵本作家『宮西達也氏』の作成で、ゆるキャラとしてはとても個性的です。

撮影日:2011年11月7日&2016年12月8日

 

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三島市立公園「楽寿園」 in 静岡県三島市一番町

2018年10月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

三島駅から程近く、三島市一番町に緑豊かな森に囲まれた三島市立公園「楽寿園」があります。 自然林と富士山の雪解け水が湧き出す庭園は、昭和29年に国の天然記念物・名勝に指定。2012年には「伊豆半島ジオパーク」のジオサイトとして認定されました。

園内の森の面積は約5ha。ちなみにですが、森の一帯は溶岩層の上に生育している為、樹木は密で生存競争が激しく、各樹木とも下部の枝は、順次枯れ落ちてしまうそうです。職人の手が入ったのかと思った見通しの良さは、樹木の生存競争の結果だったんですね・・・・

「楽寿園」の由来は、明治23年に『小松宮彰仁親王』の別邸として建てられた「楽寿館」から。

「邸宅は、江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物であり、庭園と一体化するように構成されています。」公式HPより

「楽寿館」の前面に広がる「小浜池」。三島湧水群を代表する水量を誇った池で、満水時には2m前後の水量が有ったとか。 池の水位は季節によって変化し、降水量の多い夏期に増加し、冬季に減少すると説明にあります。それにしてもこの荒涼とした池の様子は、減少などといった生易しい光景ではありません。

実は小浜池の湧水は、昭和37年頃から枯渇が続いているそうで今回も見事に渇水状態。 池の底に延々と広がる黒い岩肌は、富士の噴火のすさまじさを私たちに語り掛けてきます。

園内のもう一つの湧水池「中の瀬」は小浜池より標高が低いので、園内で最も早く湧水を始めます。ここは細かい砂礫に被われていて溶岩は見えません。

日本人の心の拠り所と言っても過言でない「富士山」。その神秘な美しさの向こうには、人智の及ばぬ「破壊」の恐怖があります。 庭園内に残る約1万4千年前の「縄状溶岩」。それは遥か太古の昔、すべてを焼き尽くした灼熱の「溶岩流」の跡。おだやかな日差しの下でねじれ曲がったその部分が、大地を襲った事実を語り続けています。

「縄状溶岩」の痕跡の近くでひっそりと存在を主張する「鞍馬燈籠」。鞍馬山で産出される「鞍馬石」で作られた灯篭で、希少性が高く非常に高価な物。私なんぞはお値段の高さに驚愕するばかりで、侘びも寂びも程遠い世界で生きています(笑)

「小浜池」の周囲に沿って設けられた散歩道の一角、緑の葉を茂らせるのは、齢約350年のアカマツ「いこいの松」。三島市内に数ある代表的な名木の一つとして知られているそうです。

さらに遊歩道を進み「小浜池」の外れ近くまで来たところで、紅葉した木々を背景に風情のある石橋が姿を見せます。橋の向こうには小さな祠。燃えるような紅葉の中、降るような日差しの下で見る古い石橋。まるでそこだけが別世界のように、時間の流れさえもゆっくりと過ぎてゆく不思議な空間。

「小浜池」とは対照的に水をたたえている「あやめ池」。木々の影を縫うように遊ぶ鴨の群れが本当に気持ちよさそうで・・・。こんなにも満々と溢れそうな水面を見ていると、自然湧水の小浜池が錯覚のように思えてきます。

ついつい駆け足っぽくなってしまった「楽寿園」。最期は昭和9年に「菩提樹」を創刊・主宰した歌人『大岡博』の歌碑。

【浪の秀(ほ)に 裾洗はせて 大き月 ゆらりゆらりと 遊ぶがごとし】

訪問日:2016年12月8日

 

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三嶋大社~其の三 in 静岡県三島市大宮町

2018年10月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

古くより三島の地に鎮座され、『三嶋の神』は東海随一の神格とされてきた「三嶋大社」。 中世以降には武士の崇敬を集め、殊に伊豆に流された『源頼朝』は『三嶋神』を深く崇敬したと云います。『三嶋神』に源氏再興を祈願し、神助を得てこれが成功するや、その崇敬は更に強くなりました。神社の絵馬には、三嶋大明神の旗印と共に「源頼朝旗挙の様」が描かれています。

境内の神池(しんち)に造られた中の島に鎮座される「厳島神社」。御祭神は『市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)』『北条政子』が勧請し、殊の外信仰したと伝えられ、また鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には、『源頼朝』がこの神池で放生会を行なったと言う記述も残されています。

「蘭渓燈籠(らんけいとうろう)」と朱塗りの社殿のコラボが美しい。

この建物は「神馬舎」なのですが、実は主役は右の黒い丸の中の「頼朝腰掛石、北条政子腰掛石」。治承4年(1180)、頼朝が源氏再興祈願の為百日間の日参をした折、休息した石と伝えられています。本来ならそちらを写している筈なのに、二度の参拝で誰も写していないという不思議・・(^^;)

赤松と黒松が一つの根から生えた「相生松」。でもポイントは松では無く、この松が植えられている場所。実は頼朝の従者「安達籐九朗」がここで警護をしていた跡・・。 腰掛け石もですが、従者が警護した場所まで残されているとは、さすがと言うか何と言うか・・(^^;)

参道の一隅にあった「古今伝授(こきんでんじゅ)のまち三島」の碑。何でここに?と検索したら、古今和歌集の解釈伝授が、室町後期に「東常縁(とおおのつねより)」から初めて、民間人の「飯尾宗祇」に伝えられた場所が三島だったという事から。いや~、知りませんでした。

鳥居を潜ってすぐの場所に置かれた「たたり石」。もしかして触ると祟られる怨霊系!? では無く、実はこの石、大社前の東海道中央に置かれ、街道を行き交う人の流れを整理していた石。「たたり」は「絡垜」と書き、糸のもつれを防ぐ=人の流れを整理するという意味ですが、人の往来が頻繁になるに従い、この石を取り除こうとする動きが出始めます。ところがその度に災いが起き、いつしか「たたり」は「祟り」に置き換えられてしまいました。 同じ言葉でありながら、これほど意味の異なるものに変化すると言う事実に唖然。曰く因縁を持ってしまった「たたり石」は、大正時代の東海道道路改修によって三嶋大社境内に移されました。

大社を後にする時、足元に見かけた「三嶋暦師の館」の案内プレート。「三嶋暦(みしまこよみ)」は、室町時代から明治5年まで、三嶋大社より一般に頒布された暦の名称。 細字の文字模様が非常に美しく、仮名文字で刷られた暦として日本で一番古いと言われています。

「三嶋大社」の宝物館には、市指定有形文化財の「三四呂(みよろ)人形」も収蔵されています。「三四呂人形」は三島市出身の人形作家『野口三四郎』が制作した「張子人形」の総称。市役所のロビーに展示されていた「三四呂人形」ですが、なんとも素朴で可愛いらしい。

「三嶋神社」への最寄駅でもある「三島駅」。木造一階建ての駅本屋は『神保忠良』によって設計。屋根の緩やかな曲線は「富士山」と「三嶋大社」をイメージしているそうです。

三島駅の屋根、2016年に訪問した際には下の車寄せの部分が無くなっていました。前回のイメージで言うなら、「三嶋大社」の部分がすっぽりと消えてしまったような・・・(-_-;)

三嶋大社からどんどん離れてしまいましたが、最後に駅に設置されたポストの上で「三島農兵節」を踊る踊り子さんモニュメント。【富士の白雪ゃノーエ~♪富士の白雪ゃノーエ~エエ~富士のサイサイ♪~~白雪ゃ~ 朝日で解ける~~♪】

参拝日:2011年11月11日&2016年12月8日

 

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