車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

加賀野八幡神社 in 岐阜県大垣市

2020年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市加賀野、名門後藤家の居城であった加賀野城の跡地に鎮座される「加賀野八幡神社」

御祭神は、『応神天皇・天照皇大神・豊受大神・家津御子神・速玉之男神・熊野久須美神』。本殿の左右に「熊野権現神社」「神明神社」が鎮座されます。

本殿前より神域を守護されるのは、瓦材で作られたと思われる「獅子顔の狛犬さん一対」。愛嬌のある顔で参拝者を迎えてくれます。

こちらは本殿脇障子の彫刻ですが、好みで言うなら「ごめんなさい!!。「獅子の谷落とし」の方はさほどでも有りませんが、右側の見上げる獅子の姿が何というか爬虫類っぽくて😣

創建は、康永年中と言われ、明治40年(1907)12月に「熊野神社」「神明神社」を合祀。古くは世安の荘の惣社として崇敬され、安産の神と伝えられています。

拝殿前より神域を守護される狛犬さん、こちらも😔・・・・・・

境内には、大垣の豊かな自噴水を代表するものとして2008年に環境省より「平成の名水百選」に選ばれた「加賀野八幡神社自噴井」があります。

豊かに湧き出る水は、初夏の渇いたのどに優しく染み込み、まさに水都の名にふさわしいもの。持参したペットボトルに頂いたお水は、旅の合間合間に私たちを喜ばせてくれました。

参拝日:2012年5月14日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あちこちウォッチ in 岐阜県大垣市

2020年01月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

木曽川水系の一級河川:水門川周辺には見どころが沢山あり、たとえば「大垣:桑名間汽船開通記念碑」もその一つ。水運の要路であった水門川の「大垣、桑名間」に定期汽船が開通したのは、明治16年(1883)の事だったといいます。

歴史を感じさせる円筒形の碑は、文政年間に大垣城下京口御門の南の美濃路沿いに建立された「船町道標」「左 江戸道」「右 京みち」の文字が深く刻まれており、はっきりと読み取れます。

水門川沿いに「大垣城西総門跡」まで行くと、綺麗に装飾された「京橋」が見えてきました。おそらく「鏝絵」の手法であろうと思われますが、住吉灯台と水門川の風景は特に圧巻です。

橋の反対側には、「紅葉と川を泳ぐ鯉」でしょうか?色が無いのに紅葉と思える技に感服します。

橋の内側からではなく、水門川から見る高覧部分にも、松に飛鶴や、群れを作る鶴たちがが繊細に描かれています。

人の気配が感じられない屋形船がゆったりと浮かぶ「水門川」、アーチの向こうに見えているのは「秋葉神社」のようです。

「大垣宿本陣跡」は、明治11年(1878)に明治天皇が東海・北陸御巡幸の際に御宿泊された場所です。現在は「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として、大垣市の史跡に指定されています。

本陣跡の敷地にあった朱塗りの鳥居の「稲荷社」は、本陣に元々あった屋敷神でしょうか? 鳥居額には「元保 正一位稲荷社」と書かれており、小さいながらも手入れが行き届いています。

大垣市藤江町にある、臨済宗妙心寺派寺院「醫王山禅桂寺」。たまたま通りがかったお寺ですが、立ち寄った以上は素通り出来ない二人、「南無釈迦牟尼仏」のご挨拶で合掌🙏🙏

「金蝶園総本家」に数ある銘菓の中でも、特にお奨め度が高く美味しいと評判の「水まんじゅう」。マンホール撮影の為に来たのですが、雨の所為で持って出たのはデジカメだけ😔 傘はあるけど(お)金が無い~♬
こういう事は良くある事😅、今回は縁がなかったと言う事で、また次の機会を待ちます。

訪問日:2018年10月10日

------------------------00----------------------

市内から大幅に離れて、大垣市曽根町にある「曽根城公園」。春日局ゆかりの地という事でやって来たのですが・・・😅 あったのは『春日局』の父「曽根城家老:斎藤利三屋敷跡」の碑。確かに縁の地ですが・・・、ちょっと肩透かし。

曽根城公園には「梁川星巌(やながわせいがん)と、妻:紅蘭」の銅像が建立されています。『星巌』は江戸後期の漢詩人で、後に京都に住み、勤王の志士と交わって国事に奔走した人物です。実はこの銅像の主が『春日の局』なのかと期待したのですが、そうでないとわかってかなりガッカリ😔

訪問日:2012年5月14日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大垣城公園 in 岐阜県大垣市

2020年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日紹介した大垣城から奥に進むと「麋城(びじょう)の滝」があり、涼しげな水音が聞こえてきます。「麋(び)」は「おおじか」という意味以外に、水際、畔などのように、水辺のことをも意味しています。ここでの「麋」は、大垣城の別名である「巨鹿」と同じ意味合いかと思いますが・・さて、どうでしょう?

「麋城の滝」近くに、治山治水に一生を捧げた『金森吉次郎』氏の銅像があります。

元治元年(1864)大垣市で生まれ、明治21年(1888)7月の揖斐川洪水の際は、大垣輪中の救済委員として、明治29年の水害の際には大垣輪中堤防委員長として、一面に浸水した大垣輪中の水防のため最前線で指揮を執り、的確な決断により災害の拡大を防止しました。(大垣市HPより)

大垣城天守の石垣には、大垣の約8割が屋根まで達するという大水害時の浸水位が刻まれており、碑とともに当時の惨状を現在に伝えています。この浸水位を刻んだ石は、画像で見ると丁度碑の後ろ。角の詰石も入れると4つ目の後方です。

拡大するとこんな感じですが、石垣に刻まれた横線(→)がその時の水位を示しています。昨年・一昨年・・それ以前も含めて、日本各地に多くの被害をもたらした大型台風による水害の爪痕を思い起こす時、改めて時代によって変わらざるを得ない「治山治水」の重要性を考えさせられます。

大垣公園内の一画、古代ギリシア建築を思わせる建造物は「大垣消防組員頌徳碑」。実は、エンタシスに支えられた碑文を見るまで、これが何なのかわからず、随分場違いなものが・・と思ったのですが心得違いでした。

「麋城の滝」から更に裏手に進むと「濃飛護国神社」の社号標と鳥居が見えてきました。ここには岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者・1万8900余柱が祀られています。

 いつもなら拝殿まで行って参拝をするのですが、今回は残り時間も少なく、また湿気を含んだ風も出てきた為、本殿後方からのお参りで済まさせていただきました🙏🙏。

こうして振り返ってみると、もう少し余裕があればもっと細かい場所も行けたのにと・・毎度の事ながら同じ後悔をして、まぁ、でもそれだからまた来ようとも思えるのですが。 見納めに振り返った大垣城、目の前に見えるこの城郭が、昭和42年(1976) に復元されたという乾櫓でしょうか?

訪問日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大垣城 in 岐阜県大垣市

2020年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市郭町に築城された「大垣城」、別名を「巨鹿(きょろく)城」とも、また「麋(び)城」とも称し、天文四年(1535)、『宮川安定(みやがわやすさだ)』によって築城。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、西軍『石田三成』の本拠地となり、大垣市のキャラクターにもなった「おあむ物語」や「七騎多門」など、多くの歴史ドラマが生まれました。

外堀に水門川の流れを利用して築城された四層四階建ての天守は、廃城令の後国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月の空襲によって焼失。昭和34年(1959)に郷土博物館として鉄筋コンクリ造りで再建されましたが、その姿は当時のものとはかけ離れていたため、2010年の改修工事で国宝当時の外観に復元されました。

大垣公園内には、大垣城を背景に「美濃大垣藩・初代藩主『戸田氏鉄(うじかね)公』騎馬像」が凛々しい姿で訪れる人たちを出迎えてくれます。

東門は、かつての柳口門を移築したもので、現在は大垣城の正門として使われています。

 

四層四階建ての天守は博物館として一般開放されており、入館料は100円と格安。館内には、関ヶ原の合戦をモノローグでリアルタイムに追ったムービーや動画コンテンツ、火縄銃や槍などを実際に触ることができる展示コーナーもあります。

天守前に建つ城址碑には、明治の廃城令の後、残された天守閣と丑寅隅櫓が国宝に指定された事、しかし戦火に寄り焼失した事などが、細かく記されています。

城址碑とは反対側の、ささやかな小山状の一画に『香淳皇后』の歌碑を見つけました。昭和33年(1957)、民生委員制度の発足40周年にあたるこの年に、民生委員に賜った御歌とあります。思いがけない発見に嬉しくて思わずガッツポーズ😄 

【 さちうすき  人の杖とも柱とも  なりていたわる  人ぞたふとき 】

 

「戊辰の役顕彰碑:明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」鳥羽伏見の戦いでは幕軍として戦った大垣藩ですが、その後直ちに勤皇に転じ、藩兵千二百人を出兵させて戦功をあげた旨が記されています。

城址には他にも沢山の碑が建立されていましたが、資料も少なく何の碑なのかも不明😓 特にこの碑などは文字列が漢詩か歌碑っぽく、できれば説明が欲しかったのですが・・きりが無いので全部省略。興味ある方は是非現地で確認してください。

ここは「水之手門跡」。石段の先にあるのが冒頭にも登場した『おあむ』ゆかりの松です。

「関ヶ原合戦時、三成に属して大垣城に籠っていた山田玄暦と娘・おあむの一家が、西堀端の松からたらい舟に乗って無事脱出できた。」その時の松が「おあむの松」として残されたとかで、この松は二代目だそうです。

※『おあむ物語(おあんものがたり)』とは、『石田三成』の家臣である『山田去暦』の娘が『雨森儀右衛門』の妻となって土佐に下り、晩年に関ケ原の戦いにおける大垣城籠城の体験を追憶した話を筆録した記録です。

訪問日:2018年10月10日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おくのほそ道:芭蕉句碑巡り~其の二 in 岐阜県大垣市

2020年01月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続いての芭蕉句碑巡りは元禄2年9月、「奥の細道」旅の途中に、大垣にある『木因』の別邸に招かれた折の挨拶吟。

【 隠家や  菊と月とに 田三反 】(この隠居所の庭には菊が咲き、月も美しく見えるし、更に田も三反あって、実に素晴らしい)

元禄2年(1689)5月27日に出羽国(山形市)「立石寺」に参詣した際に詠んだ発句。

【 閑さや  岩にしみ入 蝉の声 】(あまりにも閑かな山寺なので、煩いほどの蝉の声さえ岩にしみ込むように思えるよ)

元禄4年、芭蕉48歳の最後の江戸下向の折、『宮崎荊口』の次男『千川』宅にて詠んだ句。

【 折々に  伊吹を見ては 冬ごもり 】(あなたはこの立派な屋敷から、その折々に伊吹の雪を眺めながら、冬を越すのですね)>

元禄2年7月12日 市振の宿にて
【 一ツ家に  遊女も寝たり 萩と月 】(同じ一軒の宿に遊女と泊合わせた。おりしも庭には月の光に照らされて萩の花が咲いている)
ちなみに私はこの句を見ると、昔読んだ『横溝正史』の「獄門島」の一場面を思い出します😅

元禄二年(1689)3月27日、芭蕉は深川から舟で隅田川を遡り、千住大橋の北側あたりに上陸。そこで見送りの人々と別れる時に詠んだ句で、「矢立の初め(旅日記の一句目)」と記されています。

【 行く春や  鳥啼き魚の 目は泪 】(この素晴らしい季節が去ってゆく時は、空の鳥や水中の魚さえも悲しさに泣いている様だ)

元禄2年(1689)、日光東照宮に参拝し、その神聖で荘厳な雰囲気に敬意を表して詠んだ句。

【 あらたふと  青葉若葉の 日の光 】(なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦々と日の光が射している。)

奥の細道の句碑巡りは、激しさを増した雨に阻まれて、已む無く断念することになりました。いつか、撮り残した句碑の全てを、アルバムに収集できる日が来ればと願っています。

訪問日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おくのほそ道:芭蕉句碑巡り~其の一 in 岐阜県大垣市

2020年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「奥の細道 むすびの地」に用意された案内板には、芭蕉の句碑の所在地がコースと共に掲載されています。この通りに歩けば、全句碑を網羅できると言う事になりますが、雲行きもこの上なく怪しくなってきたし、私の足を考えるとさすがに全行程・徒歩では無理。

とりあえず近くは徒歩で、後は車で巡る事に。住吉公園の小さな敷地内に見つけた碑は、昭和42年9月9日建立。
【駒にたすけられて大柿の庄に入ば・・・奥の細道紀行 大垣の一節をしるす」

天和3年(1685):芭蕉40歳、前詞に「憂いてはまさに酒の聖を知り、貧してははじめて銭の神を覚る」

【 花にうき世  我が酒白く 飯黒し 】(世間は花に浮かれているというのに、私の酒は清酒ではないので白く濁っているし、米は玄米だから黒いのだよ。)

歩く先々でマンホールを見つけては、脇道にそれてしまう句碑巡り😅、コースも何もあったもんじゃありません。
元禄2年8月16日(現:福井県敦賀市にて)【 さびしさや  すまに勝ちたる  浜の秋 】(『源氏物語』に出てくる須磨の秋よりも、種の浜の秋はそれ以上だ、日本一の寂しさだよ)

元禄2年8月15日(現:敦賀市にて)【名月や  北国(ほっこく)日和 定(さだめ)なき 】(昨夜はあれほど月が綺麗だったが今夜は雨、北国の天気は実に読めないものだ)

貞享~元禄年間の作と伝えられています。【 ふらすとも  竹植る日は みのと笠 】(たとえ雨が降っていなくても、竹を植える梅雨の時期には蓑笠を着て作業してほしいものだ。)
中国の伝説で、陰暦5月13日の「竹酔日(ちくすいじつ)」に竹を植えると、枯れないと云われています。

元禄2年8月下旬、「奥の細道」旅の中『高岡三郎(俳号斜嶺)』亭に招かれた折の挨拶吟。

【 其まゝよ月  もたのまじ 伊吹山 】

「戸を開けば西に山あり、伊吹といふ。花にもよらず、雪にもよらず、ただこれ孤山の徳あり」

まだまだ続く「松尾芭蕉・句碑巡り」、続きはまた明日・・・・😊

訪問日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥の細道:結びの地 in 岐阜県大垣市

2020年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

かって美濃路の宿駅として栄えた大垣町。慶長年間から整備が始まった水上交通により特に水運が発達。中でも、水門川にある船町湊は、桑名や伊勢方面などとの舟運でにぎわったと云われています。

「奥の細道」の旅を終えた『芭蕉』は、友との語らいの後、ここから船で伊勢に向かいます。友人の『谷木因(ぼくいん)』に見送られて伊勢へと向かう『芭蕉』、二人の立つ位置に表現される距離が胸に染みます。

元禄2年(1689)8月、『芭蕉』は「奥の細道」の結びの地として、大垣にしばらく滞在しました。途中で別れた弟子の『曾良』も駆けつけ、土地の俳人たちとの交流で長旅の疲れを癒した『芭蕉』。 その後、伊勢神宮の遷宮拝観のため、船町港から水門川・揖斐川を舟で長島へと向かいます。

芭蕉の目に映った水門川と、川面に影を落とす住吉灯台の風景は、どのように見えたのでしょうか?二人の像の近くには、奥の細道:結びの句が刻まれた「蛤塚」が建立されています。(2014年3月、「蛤塚」を含めた一帯は、「国名勝:おくのほそ道の風景地」に指定されました。)

塚の前の道標は、船町港の高橋畔に建てられていた「木因俳句道標」と呼ばれるもので、大垣から桑名への地名と里程が巧みに詠み込まれています。

【 南伊勢  くわなへ十里 ざいがうみち 】

【 蛤の  ふたみに別 行秋そ 】「蛤塚」の所以となった、芭蕉結びの句の文字は、昭和32年(1957)に藤堂家秘蔵の原本から写真拡大して刻したものだそうです。(ハマグリの殻と身とを引き剥がすような、こんな悲しい別れの時がまたも来てしまった)

蛤の句碑の後ろには「木因俳句道標」と共にここに移された「白桜塚」の句碑が建立されています。【 惜むひげ  剃りたり窓に 夏木立 】木因

朱塗りの住吉橋を渡った先に立つ住吉灯台、その横に「芭蕉送別連句塚」。

【 秋の暮  行先々ハ 苫屋哉(とまやかな) 】木因

付句として【萩(はぎ)にねようか荻(おぎ)にねようか】芭蕉

【 霧晴ぬ  暫ク岸に 立給へ 】 如行

【 蛤の  ふたみへ別 行秋そ 】 芭蕉

「芭蕉送別連句塚」に刻まれた『如行霧塚』の句碑【 霧晴ぬ  暫く岸に 立給へ  】

「芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、「奥の細道」の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。」
「奥の細道むすびの地記念館」は、大垣市制90周年を記念して『谷木因』の屋敷跡に建設されました。

記念館の敷地内には、大垣藩老『小原鉄心』の別荘の一つ「無何有荘大醒榭」が移築されています。「無何有」とは、道教の『荘子(そうし)』の言葉で「無にして何ぞ有らん」という意味だそうです。

「大醒榭」は和風に中国風意匠を取り入れた設計で、屋根は茅葺き、外側は鮮やかな紅殻塗装。南側の衝立には、江戸時代には珍しい「ギヤマン」と呼ばれた色ガラスがはめ込まれています。

「国名勝:おくのほそ道の風景地」として整備された水門川周辺。明日は芭蕉の句碑巡りです。

訪問日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法泉寺&正覚寺の芭蕉句碑 in 岐阜県大垣市

2020年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

明星綸寺を後にして次に向かったのは大垣市赤坂町にある真宗大谷派寺院「清白山:法泉寺」。と言っても目的は芭蕉の句碑なのですが・・、そんなことばかり言ってたら、仏様に叱られそう。

山門横に設けられた藤棚の下に建立された碑の句は、別名「大和紀行」「卯辰紀行」とも呼ばる「笈(おい)の小文」の一句。
【 草臥(くたぶれ)て  宿かる比(ころ)や 藤の花 】貞享5年(元禄元年)、芭蕉45歳(歩き疲れて宿に入ろうと思っていたら、綺麗な藤の花が咲いていて、思わず見てしまった)

芭蕉の句碑が目当てですが、お寺に来たからには、きちんとご挨拶をするのは一応の礼儀。とは言え、宗派を持たない私たちなので、「南無阿弥陀仏」とお唱えします🙏🙏

「法泉寺」を後にして次に向かったのは、大垣市船町にある曹洞宗寺院「正覚寺」。車で探すにはとても分かり難い場所で、同じ場所を何度も往復してしまいました😓
史跡「芭蕉・木因遺跡」の碑は、意識してみなければ分からない、細い路地の入り口にあります。

史跡の碑を見ても本当に間違いないのかと不安になりそうな狭い路地、とりあえず行って見ることに。場所的に車の進入は不可。近くに駐車場も無い為、ご亭主殿は車中で待機。

突き当りまで進むと「芭蕉・木因遺跡」の説明と、幾つかの句碑が並ぶ一角が見えてきた時には思わず「良かった・・間違ってなかった」😅「元禄7年(1694)、芭蕉が大阪にて病没すると、如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。」説明版より

元禄七戌年(1694)十月十二日、路通筆「芭蕉翁」と刻した自然石の芭蕉追悼尾花塚。日本最古の翁塚として有名です。尾花塚の向かって左に

【 あか/\と  日はつれなくも 秌のかぜ 】はせを翁

この「翁塚」と相語らう位置に「木因墓」が作られており、それゆえこの場所は「芭蕉木因遺跡」といわれています。

画像の向かって右端、背の高い句碑は、江戸時代後期の俳人『氷壺仙』。明治十年の建立。【 無心とは あの白雲ぞ 秋の山 】

画像の右側手前、白い円柱形の句碑には、三名の句が刻まれています。

【 住みあいた 世とは嘘なり  月と花 】 帰童
【 名月や ことしの影は  ことしとて 】 冬恕
【 しずけさや  芭蕉にかかる  雨の音 】 蘆元坊

左端の丸い句碑【 野に咲けば 野に名を得たり 梅の花 】梅花佛

安政六年建立【乗りながら馬繋がれて春寒し】軽花坊 
【菜の花の 香やほろほろと 暮の雨 】曙庵

そうそう、ここは曹洞宗のお寺さんですが、手水舎の側に狛犬さんがおいでになりました。時間に急かれながらなので、じっくりと全体を写すことも出来ず、台座も読み取れません。

年代も石工も全くの不明ですが、扇状の尾をちょこんと立てた姿は、中々に愛嬌があります。

元禄七年十月十二日:時に芭蕉五十一歳。生前の遺志によって、近江国「義仲寺」に葬られます。【 旅に病で  夢は枯野を かけ廻る 】これが、芭蕉の生前最後の句となりました。

明日は「結び地記念館」から水門川周辺に建立されている『芭蕉』や俳友の句碑を紹介します。

訪問日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明星輪寺~其の二 in 岐阜県大垣市

2020年01月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「明星輪寺」其の一では、いきなり本堂からでしたが、境内には他にも素晴らしい場所が一杯。という事で~其の二は、境内からお寺の入り口に向かう帰路の順で紹介。 本堂の脇の丘「岩巣公園」を降りる途中に建つのは、修験道の本尊を奉る「蔵王権現堂」。ただし、明治の神仏分離令により、「蔵王権現宮」は「金生山神社」として分離独立しています。 が、神仏を分離してもその存在が消滅するわけではなく、やはり『蔵王権現』はここに座しておられるのです。

参道の左手(帰路なので右手)に設けられた石段参道の先には、「子育大菩薩地蔵堂」

国重要文化財に指定された 「木造地蔵菩薩半跏像」は平安時代の作と伝えられており、【この像は、檜寄せ木造りの半跏像で木眼、安定した岩座に蓮華座を重ねた4重座に腰をおろし、右足を曲げて左足を下げ足下に蓮華を踏んでいる造形は極めて珍しい。古くから安産育児の菩薩として親しまれ、今では全体に木地が現れているものの、もとは色彩像であったと思われる。】と記されています。

地蔵像は拝観できませんでしたが、堂内には弘法大師像をはじめ多くの仏像が祀られています。

県指定重要文化財の「梵鐘」には、【銘明徳二二癸酉年三月十二日】と刻まれているとのこと。総高103.0cm、口径60.6cm厚さ7.2cm。大工『藤原為継』、明徳4年(1393)3月の鋳造とありました。

参道の一画には、今回の参拝目的の一つでもあった「芭蕉の句碑」。「奥の細道」の旅を終えた『芭蕉』は、元禄2年(1689)8月28日に当寺を参詣したと云われています。

【 鳩の聲(こえ) 身に入(しみ)わたる 岩戸哉  はせお 】

季節の花が深い緑の中で僅かに色を添え、奉納された石灯籠と白い幟が僅かに風になびく参道。それはこの上なく美しく、深呼吸のたびに清らかなもので満たされるような不思議な感覚・・

もう一つ句碑を発見、【 芒(すすき)いま 西陽を受けて 幽邃(ゆうすい)なり 】塩谷小鵜

明星輪寺の山門は仏寺の守護神である「金剛力士」を安置する仁王門。そのお姿を直に見る事ができます。

鎌倉時代初期の製作と伝えられる「木造金剛力士立像」は、檜材を主体とした寄木造。この時代の仁王像としては比較的大きな優作であり、岐阜県重要文化財に指定されています。

『虚空蔵菩薩』を祀る寺の入り口には、牛と虎を一対とした立派な石像が奉納されています。

参道の右手、満開の芙蓉の花に包まれたような虎ですが、まるで満面の笑顔に見えませんか😊。阿吽の阿を担当しているからにしても、何と言うか・・大口から笑い声が聞こえてきそう。

御真言【のうぼう  あきゃしゃ  きゃらばや  おん  ありきゃ  まりぼり  そわか】

参拝日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明星輪寺~其の一 in 岐阜県大垣市

2020年01月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市赤坂、金生山(標高217.1m)の山頂付近に境内を構える真言宗寺院「金生山:明星輪寺」。西美濃三十三霊場第三十一札場、地元の人からは「赤坂の虚空蔵さん」と親しまれています。

本尊は、岩屋の中に奉られる『虚空蔵菩薩』。役小角が彫刻したものと伝えられ、「伊勢の朝虚空蔵」「京都の昼虚空蔵」と並び、日本三大虚空蔵の一つ「宵虚空蔵」として有名です。

縁起に「持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686)、役の小角の創立にかかり七堂伽藍をはじめ一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。久安四年雷火の為に伽藍残らずに焼失したが時の住僧は八方に手を尽くし復興を図って本堂その他諸堂は再建されたが、塔は再建出来なかった。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建された。江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護する。」
文久3年(1863)再建の本堂は、大垣藩藩主『戸田氏彬』によるもので、大垣市重要文化財の指定。

こちらでは内陣の参拝ができるとの事、御朱印を待つ間にご亭主殿と二人、早速靴を脱いで・・😲・・・😲 。

何と言って形容したら良いのか、圧倒的な「気」に二人とも言葉を失い、ただ立ち尽くすだけ。この画像は公式サイトよりお借りしたものですが、実際に見るともっと強大な質感に圧倒されます。

興奮状態で本堂を出ると、柔らかな朝の空気が心地よく肺に流れ込んで、思わず深呼吸😊。特別高い山ではありませんが、本堂の横からは濃尾平野が一望でき、とても美しい眺めです。

本堂の向かって左手には「金生山岩巣公園」に至る階段が設けられており、早速行ってみる事に。 群立する無数の奇岩が生み出す造形の妙は、果てしない年月が生み出した自然界の奇跡といっても過言では有りません。

『虚空蔵菩薩』は『丑寅虚空蔵』とも言われ、牛年・虎年生まれの「守護佛」とされています。この石灰岩の上に置かれた「牛」は、少しずつ廻りの岩と一体化しつつあるようにも見えます。

岩肌にへばりつくように咆哮する虎像は、彫刻師『清水金峯翁』がおおよそ七年の歳月をかけて、手彫りで彫り上げたもの。 車で来るのさえ、その勾配の急さに恐れをなした坂道も含めて、八キロの道を徒歩で、しかも七年間も・・その姿を想像すると胸が締め付けられるような・・言葉に出来ない何かがこみ上げてきます。

磐座のさらに上には、衆生救済のため菩薩の身となった『聖(しょう)観音』が彫られています。誰がどのようにして彫り上げたものか分かりませんが、美しい姿でそこに座しておられます。

古生代二畳紀石炭紀の造成になる自然岩石園は、太古の昔、一帯が海底にあった事を示しています。この一帯が海の底であった・・想像するだけで圧倒されます。朝の日差しを避けるかのように、えぐられた岩の隙間にひっそりと納められた仏様。 時間が止まったような、もしくは超速力で時間が過ぎ去るような、そこは不思議な世界なのです。

参拝日:2018年10月10日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする