車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 岐阜県大垣市

2020年01月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

大垣市(おおがきし)は岐阜県の岐阜県の濃尾平野北西部に位置する市です。養老郡養老町、不破郡垂井町、関ケ原町、安八郡安八町、神戸町、輪之内町、岐阜市、羽島市、瑞穂市、揖斐郡池田町に、また県を跨いで滋賀県:米原市、犬上郡多賀町、三重県:いなべ市に隣接。市域にある濃尾平野では濃尾平野造盆地運動という地殻運動が継続し、西部は沈降、東部は隆起。これにて形成される逆三角形の凹地に、木曽川、長良川、揖斐川の三河川が搬入する土砂が堆積して濃尾平野が形成。土砂堆積の過程において、砂層、礫層、粘土層などが幾重にも重なり合い、特に西南濃地域には、礫層が分布し、地下水が充満して帯水層が形成されている。また大垣市周辺は最後まで海として残存していた地域であることから、周辺地域から地下水が流入しやすく、地下水資源に恵まれた地域となっています。「市の木:クスノキ」「市の花:サツキ」を制定。

キャッチフレーズは「水の都・おおがき 水と緑の文化・産業・情報・交流都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、安八郡大垣町・北杭瀬村・南杭瀬村・多芸島村・安井村・洲本村・浅草村・川並村・牧村・中川村・和合村・三城村、不破郡宇留生村・静里村・綾里村・荒崎村分村・赤坂村・青墓村が発足。

1901年、赤坂村が町制を施行、不破郡赤坂町となる。

1918年、安八郡大垣町が市制を施行、大垣市が発足。

1928年、大垣市が安八郡北杭瀬村の木戸・南一色・笠木・笠縫・河間地区を編入。赤坂町が、安八郡北杭瀬村池尻:興福地を編入。

1934年~1940年、大垣市が安八郡南杭瀬村、多芸島村、安井村、不破郡宇留生村・静里村を編入。

1947年~1948年、大垣市が不破郡綾里村・安八郡洲本村、浅草村、川並村・牧村馬瀬地区を編入。

1949年~1954年、大垣市が安八郡中川村、和合村、三城村、不破郡荒崎村分村を編入。

1954年、赤坂町が、安八郡南平野村草道島、四成の一部を編入。不破郡青墓村と合併、赤坂町となる。

1967年、大垣市が赤坂町を編入。

2006年3月27日、安八郡墨俣町、養老郡上石津町を編入、現在に至っています。

マンホールには、「市の花:サツキ」と「住吉燈台・船町港跡」が鮮やかに描かれています。鍵穴の形状、自治体名の色、枠の有無によって同じマンホールでも印象が異なります。

上記と同じデザインですが、「市の花:サツキ」の花の色がピンクに変わっています。

上記と同じデザインで、全体がオレンジ一色と、白一色、また、一般的なモノクロもあります。

「大垣市浄化センター」には、フルカラー・ピンク系・規格蓋の三種が展示されています。展示マンホール見学の際には、職員の方にはとても丁寧で親切な対応をして頂き、本当に有難うございました。

大垣駅の近くに設置されたマンホールには「住吉橋と住吉燈台」が描かれています。

枠のある無しでも印象が違いますが、用途を確認しないと雨水に気付かず見逃すところでした😣

船町港跡に残る「住吉燈台」は明治20年(1887)の再建で、県史跡に指定されています。水門川畔の「朱塗りの住吉橋」と対岸に建つ「住吉燈台」、撮影スポットとしても人気です。

大正7年(1918)4月1日制定の市章は「大垣市の「大」を図案化したものです。また、大垣の名が過去に「大柿」と呼ばれていたことから「柿のへた」の形も表しています。」公式HPより

これらはいわゆる「規格蓋」と呼ばれる蓋ですが、地紋の違いでずいぶん印象が異なります。

大垣市のマスコットキャラクター『おがっきぃ』が描かれたカラー仕切弁。

「市の花:サツキ」をデザインした側溝蓋と、市章を中心に桜の花が描かれた側溝蓋。

「参勤交代の大名行列」の様子や、市の花・木が描かれた歩道用のタイル。

大垣市マスコットキャラクター『おがっきぃ』は、俳人「松尾芭蕉」をイメージして誕生。『おあむちゃん』は、石田三成に仕えた武将の娘「おあむ」をイメージして誕生しました。

その他「規格マンホール」三種。「規格仕切弁・消火栓」各二種。大垣市一円(旧墨俣町・旧上石津町を除く)に都市ガスを供給する「大垣ガス」の蓋三種の蓋を含めた全種類を、当ブログ別館にて紹介しております。

撮影日:2012年5月14日&2012年5月22日&2018年10月10日

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岐阜県大垣市のマンホールカード

2020年01月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「大垣市」のマンホールカードは、「奥の細道:むすびの地記念館」でいただけます。

1987年に設置開始されたマンホールには「市の花:サツキ」と「住吉燈台」、「船町港跡」がデザインされています。

「大垣市の花「サツキ」と、「住吉灯台」を中心に「奥の細道むすびの地」とされている「船町港跡」をデザインしたマンホール蓋です。 大垣は、松尾芭蕉が東北・北陸地方をめぐり、紀行文学作品『奥の細道』の旅を終えた地です。 船町港から伊勢へ向けて出立した芭蕉は、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」という句を残しています。 「船町港跡」は、かつて伊勢への水運の拠点として栄えた港で、現在も往事の風情を残しています。 平成26年3月には、「おくのほそ道の風景他 大垣船町川湊」として国名勝に指定され、隣接する「奥の細道むすびの地記念館」とともに多くの観光客で賑わっています。」

カードの座標軸に指定されたマンホールですが、よく見ると下の鍵穴の形状が異なっています。

実際にカードに使われたマンホールは、大垣駅近くにある「金蝶園饅頭」の歩道にありました。些細な違いですが、情報は正しく伝えて欲しいですね。

訪問日:2018年10月10日

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養老(ようろう)神社 in 岐阜県養老町

2020年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

養老郡養老町、養老公園内に鎮座される「養老(ようろう)神社」

御祭神は『菊理媛神(くくりひめのかみ)・菅原道真・元正天皇・聖武天皇・天照大神』

社伝に「創建時期は不明。「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降と推測される。平安時代、美濃国神明帳には「養老明神」と記載されている。 永正元年(1504)、『菅原道真』を合祀し「養老天神」に改称。明治初期、近くの『元正天皇・聖武天皇』の祭場を移転し合祀。この折に「養老神社」に改称される。」

深い緑と、滝から流れ落ちる澄み切った水の力を受けて、社殿の一帯は何とも云えず良い空気に満ちており、思わず深呼吸。場所柄なのか、有名な観光地の中で目立たないと云う事なのか、参拝される方は多くありません。

そんな静かな時間の中で、神域を守護される狛犬さんはひたすらに穏やかで優しい顔立ち。

拝殿の近くには「養老孝子伝説」のもととなった「菊水泉」が清浄な水を湛えて鎮まっています。老いた父親を養う樵の源丞内。貧しい樵の稼ぎでは父親の大好きな酒を買うこともままならない・・。そんなある日、山中から漂うお酒の匂いに誘われた源丞内は、流れ落ちる酒の滝を見つけました。 親を思うその心根が、滝の水を酒に変えたのだ・・その話は遠く都にまで伝わったと言います。

この地を行幸した『元正天皇』は、【醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし】との詔を出し、元号を「養老」と改元しました。

この『源丞内(げんじょうない)』さん、実は養老の駅前で、瓢箪を手にして出迎えてくれます。

養老神社の西に鎮座する「金刀比羅神社」。以前は養老町飯ノ木の源氏橋付近にあったと云います。

この地には、かって平治の乱に破れた『源義朝』主従を、飯ノ木の村人が柴船に乗せて逃がしたという伝説が残されており、以来、その橋に源氏橋の名がつけられました。それと「金刀比羅神社」の関係は特にありませんが、本来は海上交通の守り神とされる「金比羅神社」が何故こんな山中に祀られているのか? 疑問に思って色々調べた結果、古き良き日本人の神仏への崇敬の逸話と共に、たまたま見つけた、弱き者を哀れと思う庶民の「昔話」でした。

もっと丹念に見ていけば、まだまだ珍しい発見があったと思われる「養老の滝」と「養老公園」。ですが、この後を考えると体力は温存しておかねば😣。名残惜しさを残して次に向かいます。

参拝日:2012年5月13日

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養老(ようろう)の滝 in 岐阜県養老町

2020年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

揖斐関ヶ原養老国定公園に属する幅4m・落差32mの美しい直瀑「養老(ようろう)の滝」。「日本の滝百選」及び、「養老の滝・菊水泉」として、名水百選にも選定されてます。

公園駐車場(一日500円)から1.2km 、一般の人で徒歩30分・・と言うことは私の足では、軽く小一時間・・・😔  折角ここまで来て滝を見ないのは、大好物のカニを前にして食べないのと同じくらい残念なことだよね!。と、変なたとえに笑われながら、滴るような緑の道を進んでいくと右手に大きな句碑を発見。

【去りかき瀧の養老みょうけんはし】作者は『大野万木(ばんぼく)』

滝へと続く道は少しずつ角度を増していき、五月の日差しは思いの他体に熱をこもらせます。でも養老の森はそんな事とっくに承知とばかり、木々はまぶしい光をさえぎり、涼やかな風をおくりこんできます。

「おたきみち」と書かれた古い道しるべ、その指差す方向から、かすかに聞こえてくる水の音。半そでから出た腕がほんのりと冷たさを感じ始める頃、道は自然道の様相を見せ始めました。

片側に設けられた石積みの水路は、今はほとんど水の無い状態、でもきっと流れは急だろうな。水量が多ければもっと素敵だった?・・・いやいや、道幅に比べてこの広さは脅威かも😅

水の音は徐々に大きさを増し、やがて緑の木々を振るわせるほどの音となって聞こえて来ました。ここから滝の前まではまだそれなりの距離ですが、それでもまっすぐに落ちる滝の姿が見えます。

流石は有名な観光名所、訪れる人も多く、何度かカメラのシャッター係りを任命されました😊 もちろん、私たちも養老の滝をバックに、貴重な記念写真を残せることが出来ました。 旅先で出会う美しい風景は、どんなご馳走よりも心を満たし、そして遊び心もくすぐります。

滝の水を飲んだり、両手に受けたり・・・視覚の遠近感を利用した撮影はもうお約束事😊 飲み干す役はご亭主殿、両手に受けるのは私・・ちなみにここにいた観光客の皆さん、同じような事をして楽しんでいました。

まっすぐに流れ落ちた滝は、まるで渓流の風景を思わせながら岩の隙間を縫って流れてゆきます。

観瀑場には、明治百年記念事業として、養老観光協会が建立した「続日本紀等銘文碑」が建立。鋳銅製円柱の銘文には、『頼山陽』が「続日本紀、古今著聞集」に記した養老関係文書が刻印されています。

ご丁寧に記念スタンプまで用意されているあたりが、観光地らしい配慮ですが、紙は自前😄

これは「丁石」と呼ばれるもの。かってこの「瀧道」の道筋には、滝20丁から滝1丁までの丁石が建てられていましたが、明治の養老公園開発工事で、数基の道標が紛失し、本来の位置も多くが不明となりました。

明日は、古今著聞集に記載されている「養老孝子伝説」にゆかりの「養老神社」の紹介です。

訪問日:2012年5月13日

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ご当地マンホール in 岐阜県養老町

2020年01月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

養老郡養老町(ようろう ちょう)は岐阜県の西部、濃尾平野の最西端に位置する町です。不破郡垂井町、安八郡輪之内町、海津市、大垣市に、また県を跨いで三重県いなべ市に隣接。揖斐・関ヶ原・養老国定公園の一画を占める養老山地から水稲や施設園芸が盛んな水郷地帯に広がる変化に富んだ自然に恵まれた町です。孝子物語を生んだ「養老の滝」や、8世紀に養老の名が元号にもなった端緒の元正天皇の行幸跡や、宝暦治水の薩摩義士役館跡など、多くの旧跡を擁しています。「町の木:ツゲ」「町の花:菊」を制定。

キャッチフレーズは「人が織りなす 輝くまち 養老」

明治22年(1889)、町村制の施行により、多芸郡高田町・養老村・澤田村・櫻井村・口ヶ島村、飯之木村・大跡村・西岩道村・岩道村・上多度村・小畑村・日吉村・大巻村・根古地村・根古地新田・大場村・釜段村・駒野新田・栗原村・室原村・多岐村・北大墳村・直江村・飯積村・金屋村・上ノ郷村・下笠村・船着村・栗笠村が発足。

1897年、郡制の施行により、多芸郡・上石津郡の区域をもって養老郡が発足。
同年、養老村、澤田村、櫻井村が合併、改めて養老郡養老村が発足。
大巻村、根古地村、根古地新田、大場村、釜段村、駒野新田が合併、養老郡池辺村が発足。
毘栗原村、室原村が合併、養老郡合原村が発足。
多岐村、北大墳村、直江村、飯積村、金屋村が合併、養老郡多芸村が発足。
上ノ郷村、下笠村、船着村、栗笠村が合併、養老郡笠郷村が発足。

1898年、口ヶ島村、飯之木村、大跡村、西岩道村、岩道村が合併、養老郡広幡村が発足。
三郷村、上多度村が合併、養老郡上多度村が発足。
烏江村、養老村押越が合併、養老郡高田町が発足。

1954年、高田町、養老村、広幡村、上多度村、池辺村、笠郷村、小畑村、多芸村、日吉村、合原村室原地区が合併、養老郡養老町が発足しました。

マンホールには「養老の滝」、周囲に「町の木・ツゲ」「町の花・菊」が描かれています。

養老の滝

「養老孝子伝説」で、酒好きの父親の為に山に分け入り、酒の滝を見つけた孝行息子。消火栓にデザインされているのは、孝行息子がモデルの『スマイルげんちゃん』、桜を手にお酒が入った赤いヒョウタンに乗って飛んでます。

「ヒョウタン」は養老町のシンボル的存在らしく、町の玄関口である駅前でも、存在感ばっちり😄

昭和30年4月1日制定の町章は「カタカナで「ヨーロー」を表しています。全体は、孝子が霊泉で酒をくんだと言われる瓢箪(ひょうたん)の形にデザインしています。」公式HPより

「仕切弁」

「消火栓」

「止水栓:量水器」

「側溝蓋」

撮影日:2012年5月13日

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垂井宿・あちこちウォッチ in 岐阜県垂井町

2020年01月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

日本橋から112里、中山道沿いに当時のままに現存する「垂井一里塚」。中山道の一里塚として国の史跡に指定されているのは二箇所のみで、ここ「垂井一里塚」はその一つ。傍らで翻る旗印は、関ヶ原の戦いの折、この地に陣を構えた東軍の武将『浅野幸長』のもの。

一里塚の隣に「日守の茶所」という、今は地蔵様が奉られた建物があります。もともとは、江戸の末期に「化月坊」が芭蕉ゆかりの地に建てた「秋風庵」という建物でしたが、明治になってこの地に移され、以後昭和の初めまで、中山道の休み処として盛んに利用されました。

「垂井」の地名の由来となったとされる「垂井の泉」。ここには今も清らかな水が湧き出しています。平安時代中期の歌人『藤原隆経』が、この泉を読んだとされる歌が良く知られています。

【 昔見し たる井の水は かはらねど  うつれる影ぞ 年をへにける 】(昔見た垂井の水はちっとも変わっていないのに、泉に映る自分はずいぶん年老いてしまった)

左手の石段の手前には芭蕉句碑

【 葱(ねぶか)白く  洗ひたてたる  寒さかな (畑から抜いてきたばかりの葱を洗うと真っ白になった、それがなおさら寒さを思わせる)

 

中山道垂井宿、「本龍寺」の向かいに、国登録有形文化財の「小林家住宅主屋」。昭和初期まで亀谷の屋号で旅籠を営んでおり、黒漆喰塗の虫籠窓などが往時を彷彿とさせます。

間違って入り込んだような細い路地の奥に、紙屋の守護神「紙屋明神」を祀る小さな祠があります。古代の国府近くに位置したこの場所は「美濃紙発祥の地」とされ、「紙屋塚」と称されています。

垂井の玄関口でもある「垂井駅」北口駅前に、比較的新しく建立されたらしい『竹中半兵衛重治公』の銅像がありました。秀吉に仕え、彼を天下人へと押し上げ、戦国時代きっての軍師と謳われた『竹中半兵衛』。同じく秀吉に仕えたもう一人の軍師『黒田官兵衛』と共に、歴史好きの心を魅了し続けています。

訪問日:2018年10月9日

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南宮(なんぐう)大社~其の二 in 岐阜県垂井町

2020年01月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続き「南宮大社」境内紹介。二日目は、桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、檜皮葺丹塗りの「高舞殿」。素通しの四面には、十二本の丹塗りの柱が不思議な幾何学的美しさの空間を生み出しています。柱の上部の蛙股には一面に四枚ずつ、見ごたえのある美しい干支の彫刻。無論、この建物も重要文化財。

「高舞殿」の屋根と接してしまいそうな近くに、入母屋造・軒唐破風付の「拝殿」。 舞殿の位置がこんなに近くなのは、本殿に鎮座されるご祭神が神楽をご覧になる為と云われています。

確かに拝殿からまっすに続くご本殿の位置を見ると「なるほど」と思わず頷かされます。丹塗りの社殿群の中では「幣殿」と「本殿」のみが「素木(しらき)造」。「素木造」とは文字通り、木の地肌そのままの材木を使った建物の呼び名。 派手やかで無い事で、神の座す場に相応しい清浄さが感じられます。

拝殿の左右に続く「回廊」は、それぞれの神門まで続いており、内側を見ることはできません。

拝殿から続く回廊の入り口付近から拝見した天井部分には、何枚かの奉納額が架けられています。「鑿(のみ)に鏨(たがね)」「鎌の刃」。これらはご祭神である 金属の神にちなんでものと思われます。

同じ回廊の入り口から垣間見えた「摂社:樹下神社」、本殿に向かって右隣に鎮座し『大己貴命』を御祭神とします。本殿の両脇には、やはり重文の「高山神社・隼人神社・南大神神社・七王子神社」が鎮座。社殿はすべて重要文化財の指定を受けており、できれば間近で参拝したかったのですがこればかりは仕方ありません。垣間見られるだけでも幸せと思わなければ。

南門の隣、手水舎の後方に建つ入母屋造・本瓦葺・欅造りの神輿舎も同じく重文指定の建物。 ここまで来ると、重文以外の建物の方が少ない気がしますが・・と言うか、有るんでしょうか?😓

神輿舎には、寛永19年(1642)の社殿再建の際に『徳川家光』が寄進した神輿が安置されています。 神輿は拝見できませんが、軒下には刃物・金物を収めた沢山の「金物絵馬」が奉納されていました。

右回廊の先に奉納された「さざれ石」。荘厳な国歌の歌詞にも登場する「さざれ石」、それに謳われる言霊のように、この日の本の国が、千代に八千代に栄えますように・・

「南門」は、向かいの「北門」と一直線に繋がっており、その中央に舞殿が位置します。 それが何か大きな意味を持っているのか、単に舞を見る民衆の為の配慮でたまたま一直線の位置になったのか、それに関する記載はどこにもなく想像の域を超えません。

境内を出て駐車場に向かう途中で見かけた「数立神社」。旧称を惣社と呼んでいたことから、美濃国総社とする説もあるそうです。桧皮葺の美しい社殿は、もちろん国指定の重要文化財。

駐車場の近くに鎮座されている大岩は、何の由来でここに奉られていたのでしょうか? しっかりと注連縄による結界があるからには、それなりの理由があるのでしょう。

明治の神仏分離令によって、おそらくこの門前町の規模は相当に小さくなったと思われます。それでも参道を隔てた松並木のこちら側に広がる景色は、今も往時を忍ばせる佇まいを見せていました。

ここから大鳥居を経て樽井宿へと向かうのですが、あと三点「南宮大社」ゆかりの場所を紹介。 まずは大鳥居の神社側に建立された「五月大祭神事舞奉奏市場」と刻まれた古い碑。ここは、毎年5月5日に行われる「国重要無形民俗文化財」の例大祭の舞台となるところです。

はじめてみた時は驚きだった朱塗りの大鳥居、高さは21m。向こうに見えているのは新幹線の高架。

最期は、旧中山道から南宮参道への入り口にある、寛永十九年に築造された「石鳥居」。花崗岩を使った明神鳥居で、中央には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額。高さは約七メートルで、造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうです。実は、この鳥居だけは画像に無く、2018年に垂井を訪問した際に立ち寄って撮影したものです。

参拝日:2012年5月13日(石鳥居のみ2018年10月9日)

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南宮(なんぐう)大社~其の一 in 岐阜県垂井町

2020年01月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

新年の最初を無事に迎える事ができて、明けて二日、今日から又いつもの日常がスタートです。

垂井町宮代峯、南宮山の山麓に鎮座される「美濃国一宮:南宮(なんぐう)大社」。  御祭神は『金山彦命(鉱山を司どる神)』。配祀『彦火火出見命、見野命』。国内には『金山彦命』を祀る神社が約三千社あるといわれており、「南宮大社」はその総本社とされています。

由緒に【創設は神武天皇の時代にさかのぼる。『延喜式神名帳』に「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」とあり、美濃国府が置かれていた府中に祀られていたとされる。崇神天皇の御世現座地に移り、国府の南に位置することから、「南宮大社」と呼ばれるようになったと伝えられる。】

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで社殿の全てを焼失しますが、寛永十九年(1642)に徳川家光によって再建。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、それらは全て国の重要文化財に指定されています。

境内に入ってひときわ目を引くのは、見上げるばかりの高さの、鮮やかな丹(に)塗りの「楼門」。楼門の前に架かる花崗岩製の橋は「石輪橋」と呼ばれ、社殿と同じく寛永十九年の造営。

なお、この「石輪橋」は祭神の通り道とされており、一般の人がこの橋を渡ることは固く禁じられています。一般の参拝者は 画像の手前にある「石平橋」を利用。「南宮大社」の例大祭では、神輿が下向する際この橋を渡ることから「下向橋」とも呼ばれており、社殿と同時期の造営で文化財の指定を受けています。

楼門の内側より神域を守護されるのは、相当の時代を経たと思われる、玉眼の木製神殿狛犬さん。本来神殿狛犬は、大いなる魔を寄せ付けぬために置かれるもので、顔立ちはかなり怖いのですが・・ 

「破顔一笑」と言う言葉がこれほどしっくりくるのは珍しいかも😊

対する吽形さんは、頭の角さえも優雅な飾りに思えるほど、柔らかな微笑を浮かべています。 明らかに区別を施した神獣さん以外には雌雄の区別をつけない主義の私ですが、こちらはきっと女御神獣。

神楽殿に見られる十二支の「蟇股(かえるまた)」彫刻は有名ですが、楼門にも素晴らしい彫刻があります。白い鶴にまたがり雲中を飛ぶのは『王子喬(おうしきょう)』

鯉乗り仙人とも形容される『琴高(きんこう)仙人』、その名の通り、いつも鯉に乗った姿で表されます。

「碁を打つ老人」は中国に伝わる昔話で、ある日、樵が山に入ると立派な服装の二人の老人が碁を打っているのを見つけ、それを見ている間に人界の時間を越えてしまったというお話。 それにしても碁を見ていただけで数十年が過ぎ去ったなんて、いや~、世界の何処にでも、こんな怖い話があるんですね😲

母思いの孝行息子が、真冬に母の好物の筍を捜し求めて、ついに見つけるという「雪中の筍」、真冬に筍が食べたいと言う母親って、どうなん??と私なんぞは思うのですが😓

さて、内容が説明できる彫刻は問題ないのですが、ここに来て???と悩んでしまった図柄が二枚。 大木の下にいる鹿に、中身が水か酒か不明の金の瓢箪を差し出す人、一体何をしているんでしょう。

某お菓子のキャラクターに似た、黒ひげの恰幅の良い男、松の木陰に座って何をしているのか・・ま・・ まさか😲!!「それにつけてもおやつはカァ~・・・以下自粛」何て事を、してる筈ないですよね。

という事で明日は楼門を潜った先からの「南宮大社」、見所はまだまだ続きます。

参拝日:2012年5月13日

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明けましておめでとうございます

2020年01月01日 00時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

一夜明けて、2020年1月1日、数字を見てると2・0・1が行儀よく並んでいて思わずにんまり😄

本来は「和暦」で書きたいところですが、和暦は「昭和」までと決めています。

年のはじめに紹介したいお正月らしい画像を・・・という事で新年の画像では定番の富士山を1枚😊 日本人のDNAに刷り込まれたと言っても過言ではない、富士山の美しさは永遠のものです。我ながらきれいに撮れました。

湖に影を移す富士山も良いですが、湖中の鳥居なども心を揺さぶられる光景です。 水面に影を落とす朱の色は、より神秘的で美しく、この世の森羅万象を象徴しているように見えます。

鳥居は神域と俗世とを隔てる結界であり、また神域と俗世とをつなぐ門でもあるのです。 ことにそれが水の中にあるとなれば、その向こうにあるのはさらに異なった世界への誘いでもあります。潮の満ち干もまた神の思し召し、限られた刻にのみ開かれる、神への門となります。

 

今日から始まる一年が、誰にとっても穏やかで優しいものでありますように・・・ 打ちのめされた多くの命の上にも暖かい日差しが降り注がれますように・・・

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