9月10日(木)
今日の6時間目は、避難訓練だった。
9月1日の防災の日は体育祭の練習がメインだったので、今日になったらしい。
訓練は、皆静かに、迅速に、きちんとできたと思う。
ところが、その後の反省の場で、生徒たちに9月1日が防災の日のわけを聞いたところ、
「地震が多い月だから」と言うような返答だった。
本当は知っているのに、みんなの前では恥ずかしくて正解がいえない生徒もいたのだろうか・・・。
でも、「『関東大震災』って聞いたことある?』と言う質問にはほぼ全員が手を挙げた。
みんな、それは『昔あったこと』で、リアリティがなさ過ぎて『近未来に起きるかもしれないこと』とは捉えられていないのだろう。
私は、1978年(昭和53年)の『宮城県沖地震』罹災者だ。
6月12日17時14分44秒、M7.4の地震が発生。当時、高校3年生の私は、放課後の放送室で、一人で、放送原稿の執筆中だった。
遠くから地鳴りのようなものが押し寄せてきたので、窓を開け、机の下にもぐりこんだ。
次の瞬間、床下から突き上げるような縦揺れになり、波打つような床に這い蹲りながら窓の外を見ると、ナイター用のたくさんの電球がついた柱が、引きちぎれた電線を振り回しながら、メトロノームのように大きく揺れていた。
池は激しく波打ち、池の周りでは鯉がのた打ち回っていた。
校舎のあちこちで、悲鳴が上がり、物が落ちたり、壊れたりする音が聞こえた。
私のいる放送室のスタジオは、カセットやレコードが手裏剣のように棚から飛び出してきて、マイクスタンドが倒れてきた。
どのくらいの間揺れていたのだろう。
揺れが収まってから、校内を見て回ると、とんでもない光景ばかりだった。
一番ひどかったのは、生物室。戸棚のガラスはすべて割れ、中にあったホルマリン漬けになっていた物たちが、液体と割れたガラスとともに、床に散乱していた。
美術室の石膏像23体はことごとく落ちて破損していた。
図書室の復旧にはその後40日もかかった程、足の踏み場もなかった。
体育館のスピーカは落下し、演劇部の部室に保管してあったスタンドライトも倒れて壊れていた。
自転車で帰宅しながら、ところどころ道路が地割れしていたり、ブロック塀が折曲がるように倒れているのを見て、どれだけ大きい地震だったのだろうと今更ながら恐ろしくなった。
我が家は田んぼの埋立地にできたニュータウンに立っているのだが、地盤がゆるいために凄い状態になっていた。
まず門やブロック塀が倒れ、家の中は一階全体の四隅が沈んで真ん中の板が盛り上がってまるで坂道を登っているような感覚だった。壁も張り出してきて、ドアや引き戸が動かない。
2階の私の部屋のドアは開いたが、たんすの引き出しは飛び出し、本棚は倒れ、いろんなものが投げ出されて散乱した上に、ペンダントコードの電気が落ちて蛍光灯が割れて散乱し、とても裸足では踏み込めない状態だった。
物置の床は液状化状態になって、いろいろなものが泥水に使っていた。
私の大事にしていた『りぼん』と言う漫画雑誌は全部捨てる羽目になってしまった*(涙)*
地震発生時の我が家には当時小学5年生の妹が一人いたのだが、この後の断水を予想して、ちゃんと風呂に水を張っていたのだという。怖かっただろうに、本当に凄い奴だとつくづく思う。
急いであちこちの店に食料を買い出しに行ったが、すぐ食べられるようなものはほとんど売り切れ。当時の我が家はプロパンガスだったので、カップめんを買ってきた。都市ガスだったら食べるものがなかっただろう。
家の中を片付け、ろうそくやラジオを用意しながら、家族が全員揃うのを心配しながら待ち、全員の無事を確認できた時は本当に嬉しかった。
電気のない夜にろうそくの灯のもと、家族で身を寄せ合って、断続的に続く地震に怯えながらすごした不安な夜の事は30年経っても忘れられない。
中学の講師になってから、何校かの避難訓練を体験してきたが、どの学校もそれなりの指導はしていて、生徒たちも中には緊張感のない生徒もいるが、大体は真剣に取り組んでいるように見受けられる。
でも、先生方を始め、生徒はもちろん、震災経験者ではないから仕方がないだろうけれど、リアリティのない避難訓練だなぁ・・・と思ってしまう。
もっと、地震が起きた時の想定をバーチャルリアリズムでイメージさせる事前指導や、起振車で震度体験をさせるとか、もっとインパクトのある、形だけではない避難訓練を望むのは大袈裟だろうか・・・。
そう言いながら、阪神大震災直後には買い揃えていた防災グッズの中身入れ替えも、最近はおざなりになっている私。
加えて、家の中は地震対策としては万全ではない箇所が多数。
いつも持ち歩いていたペンライトやホイッスルも忘れがち。
何より、家族が全員家にいるときの避難場所は分かっていても、日中の行動範囲がひろくなってしまった家族との連絡が携帯のみとなってしまい、私自身、勤務中に震災が起きた場合は、生徒全員の保護者への引渡しが完了できないうちは帰宅できない。
以前教えていた生徒にばったり会った時に、
「私ね、「防災ポスター」を描いた時に先生が話してくれた『阪神大震災の被害に遭った人は、暗闇の中で地震が起きた時、裸足で逃げるのは危険だから、眠る前に枕元に靴を準備している』と言うのを聞いてから、いつも枕元に靴を置いて寝ているんだよ」
と言われ、ハッとした。
生徒に教えておきながら、私はどうだろう。
通り一遍の授業、『喉もと過ぎれば暑さを忘れる』状態になってはいないか。
『天災は忘れた頃にやってくる』のだ。
『備えあれば憂い無し』
『物の準備』だけでなく、どこで地震に遭っても、避難経路を意識して、自分自身がパニックに陥らないように『心の準備』も必要だ。
避難訓練という行事で終わらせるのではなく、普段から、機会を見ては、私が体験したこと、学んだこと、意識していることを、わが子や生徒たち、周りの大人たちにも話すようにして行こうと思う。
この夏、東海地震を予感させる大きな地震が続いた。いつ起きてもおかしくないと言う第二次関東大震災。
アニメ『シャングリ・ラ』の世界が、いつか現実のものになる日はそこまで来ているのかもしれない。
今日の6時間目は、避難訓練だった。
9月1日の防災の日は体育祭の練習がメインだったので、今日になったらしい。
訓練は、皆静かに、迅速に、きちんとできたと思う。
ところが、その後の反省の場で、生徒たちに9月1日が防災の日のわけを聞いたところ、
「地震が多い月だから」と言うような返答だった。
本当は知っているのに、みんなの前では恥ずかしくて正解がいえない生徒もいたのだろうか・・・。
でも、「『関東大震災』って聞いたことある?』と言う質問にはほぼ全員が手を挙げた。
みんな、それは『昔あったこと』で、リアリティがなさ過ぎて『近未来に起きるかもしれないこと』とは捉えられていないのだろう。
私は、1978年(昭和53年)の『宮城県沖地震』罹災者だ。
6月12日17時14分44秒、M7.4の地震が発生。当時、高校3年生の私は、放課後の放送室で、一人で、放送原稿の執筆中だった。
遠くから地鳴りのようなものが押し寄せてきたので、窓を開け、机の下にもぐりこんだ。
次の瞬間、床下から突き上げるような縦揺れになり、波打つような床に這い蹲りながら窓の外を見ると、ナイター用のたくさんの電球がついた柱が、引きちぎれた電線を振り回しながら、メトロノームのように大きく揺れていた。
池は激しく波打ち、池の周りでは鯉がのた打ち回っていた。
校舎のあちこちで、悲鳴が上がり、物が落ちたり、壊れたりする音が聞こえた。
私のいる放送室のスタジオは、カセットやレコードが手裏剣のように棚から飛び出してきて、マイクスタンドが倒れてきた。
どのくらいの間揺れていたのだろう。
揺れが収まってから、校内を見て回ると、とんでもない光景ばかりだった。
一番ひどかったのは、生物室。戸棚のガラスはすべて割れ、中にあったホルマリン漬けになっていた物たちが、液体と割れたガラスとともに、床に散乱していた。
美術室の石膏像23体はことごとく落ちて破損していた。
図書室の復旧にはその後40日もかかった程、足の踏み場もなかった。
体育館のスピーカは落下し、演劇部の部室に保管してあったスタンドライトも倒れて壊れていた。
自転車で帰宅しながら、ところどころ道路が地割れしていたり、ブロック塀が折曲がるように倒れているのを見て、どれだけ大きい地震だったのだろうと今更ながら恐ろしくなった。
我が家は田んぼの埋立地にできたニュータウンに立っているのだが、地盤がゆるいために凄い状態になっていた。
まず門やブロック塀が倒れ、家の中は一階全体の四隅が沈んで真ん中の板が盛り上がってまるで坂道を登っているような感覚だった。壁も張り出してきて、ドアや引き戸が動かない。
2階の私の部屋のドアは開いたが、たんすの引き出しは飛び出し、本棚は倒れ、いろんなものが投げ出されて散乱した上に、ペンダントコードの電気が落ちて蛍光灯が割れて散乱し、とても裸足では踏み込めない状態だった。
物置の床は液状化状態になって、いろいろなものが泥水に使っていた。
私の大事にしていた『りぼん』と言う漫画雑誌は全部捨てる羽目になってしまった*(涙)*
地震発生時の我が家には当時小学5年生の妹が一人いたのだが、この後の断水を予想して、ちゃんと風呂に水を張っていたのだという。怖かっただろうに、本当に凄い奴だとつくづく思う。
急いであちこちの店に食料を買い出しに行ったが、すぐ食べられるようなものはほとんど売り切れ。当時の我が家はプロパンガスだったので、カップめんを買ってきた。都市ガスだったら食べるものがなかっただろう。
家の中を片付け、ろうそくやラジオを用意しながら、家族が全員揃うのを心配しながら待ち、全員の無事を確認できた時は本当に嬉しかった。
電気のない夜にろうそくの灯のもと、家族で身を寄せ合って、断続的に続く地震に怯えながらすごした不安な夜の事は30年経っても忘れられない。
中学の講師になってから、何校かの避難訓練を体験してきたが、どの学校もそれなりの指導はしていて、生徒たちも中には緊張感のない生徒もいるが、大体は真剣に取り組んでいるように見受けられる。
でも、先生方を始め、生徒はもちろん、震災経験者ではないから仕方がないだろうけれど、リアリティのない避難訓練だなぁ・・・と思ってしまう。
もっと、地震が起きた時の想定をバーチャルリアリズムでイメージさせる事前指導や、起振車で震度体験をさせるとか、もっとインパクトのある、形だけではない避難訓練を望むのは大袈裟だろうか・・・。
そう言いながら、阪神大震災直後には買い揃えていた防災グッズの中身入れ替えも、最近はおざなりになっている私。
加えて、家の中は地震対策としては万全ではない箇所が多数。
いつも持ち歩いていたペンライトやホイッスルも忘れがち。
何より、家族が全員家にいるときの避難場所は分かっていても、日中の行動範囲がひろくなってしまった家族との連絡が携帯のみとなってしまい、私自身、勤務中に震災が起きた場合は、生徒全員の保護者への引渡しが完了できないうちは帰宅できない。
以前教えていた生徒にばったり会った時に、
「私ね、「防災ポスター」を描いた時に先生が話してくれた『阪神大震災の被害に遭った人は、暗闇の中で地震が起きた時、裸足で逃げるのは危険だから、眠る前に枕元に靴を準備している』と言うのを聞いてから、いつも枕元に靴を置いて寝ているんだよ」
と言われ、ハッとした。
生徒に教えておきながら、私はどうだろう。
通り一遍の授業、『喉もと過ぎれば暑さを忘れる』状態になってはいないか。
『天災は忘れた頃にやってくる』のだ。
『備えあれば憂い無し』
『物の準備』だけでなく、どこで地震に遭っても、避難経路を意識して、自分自身がパニックに陥らないように『心の準備』も必要だ。
避難訓練という行事で終わらせるのではなく、普段から、機会を見ては、私が体験したこと、学んだこと、意識していることを、わが子や生徒たち、周りの大人たちにも話すようにして行こうと思う。
この夏、東海地震を予感させる大きな地震が続いた。いつ起きてもおかしくないと言う第二次関東大震災。
アニメ『シャングリ・ラ』の世界が、いつか現実のものになる日はそこまで来ているのかもしれない。