TOLITON's WEB SITE

日記中心
 
情報提供(アニメ・映画・美術関係)

交流

特別支援  生徒の困り感を疑似体験してみて・・・

2009-09-25 06:55:00 | 徒然なるままに
9月24日(木)

今日は、学校研修会で、『特別支援教育の推進』について学んだ。

今も、昔も、普通学級の中には、特別な支援を要する子どもたちが1クラスに必ず何人かは在籍する。

学校によっては、情緒と知力に分かれて、手厚く支援する担当の教諭が配置され、専用の教室を持つ学校もあるのだが、ない学校もたくさんある。

はっきりと『診断名』のある生徒については、それに対応した認識に基づいた支援ができるのだが、『そういう傾向がある』という程度の生徒に関しては、一斉授業の中で指導するのは、教師も、生徒自身もかなりきついものがある。

今回の研修では、どういう生徒に、どういう支援が必要なのかの理解を深めるために、生徒の立場に立った『疑似体験』をした。
生徒がどんなときに、どんなことで困っているのか、
そういうときには、どんな気持ちでいるのか、
どういう支援があったら、その状況から意欲を引き出せたり、集中できるようになるのか・・・
など、生徒の立場に立ってその設定のシチュエーションを体験すると、今まで見えなかった、頭でしか理解できていなかったことを、感情を伴って理解することができた。

その体験を通して、私は大いに反省させられた。
私の授業や生徒との関における問題点や、改善点。
でも、それを理解しようという気持ちがあるかどうかで、むやみに悩んだり、問題点を避けて通ったり、面倒くさがって、相手生徒に責任転嫁することは大間違いだということが良く理解できた。

大切なのは、『伝え方』なのだ。
誰にでも分かりやすい『伝え方』はできているだろうか?
視力の弱い子、
弱視の子、
疲れている子、
寝不足の子、
動くものやちょっとした刺激があるとすぐそちらに気が散ってしまう注意散漫な子
心になにか引っかかるものがあって、授業など上の空の子
などなど、
特別な支援とまでは行かなくても、そういう生徒たちがたくさんいる一斉授業は、ざわついていて、授業が成り立たない。
『支援が必要な生徒』は、そういうざわついた状況の中では、不安でますます気持ちが集中できなくなる。

その子たちが、聞く耳を持って、授業に集中できるようになるためには、どんな工夫と、教える側の心構えが必要か。
板書の仕方(字の大きさ、文字)、図や画像の見せ方、座席の位置、部屋の明るさ、分かりやすい言葉遣い、声の大きさ、早さ、強調、繰り返し、確認など・・・。
もっとも大切なのは、意欲をほめること。
がんばって調べてきたり、発表したり、その子の努力を認めてあげることで、他の子の興味や意欲を呼び起こし、みんなの気持ちが学習に向いてきて、ノってきたらこっちのもの。最後は教える側も、教わる側も、『達成感』を味わうことができたら、ラッキーだ。

私は美術なので、まずは『百聞は一見にしかず』。どんな解説よりも、これからやろうとする課題の『参考作品』などの提示はとても有効であり、大切な『導入』だ。
『どうやったらこんなものができる、描ける様になるのだろう』
『やり方はわからないけれど、自分もこういうものを作りたい、描けるようになりたい』
と思わせられたら、OK!
今、2年生の『CDジャケット』では、昨年の生徒作品の実物を借りてきて展示してある。
生徒たちの反応は上々。教えていない手法を知りたがり、下書きを何回も書き直してはもっと自分のイメージを表現するにはどうすればいいかアドバイスを求めに来る。
去年の生徒たちも今頃はそうだったなあ・・と懐かしく思いながら、作品を見ては彼らの頑張りが、こうして後輩たちの興味や意欲を掻き立ててくれていることに、心から感謝している。


有名な画家の中には、『特別な支援』を必要とするような人たちはたくさんいたはずだし、今もいるはずだ。
ムンクも、ゴッホも、山下清も・・・。
口だけで絵を描く一足で描く人、目が見えない人、耳が見えない人・・
みんな、そのハンデを乗り越え、他の器官を研ぎ澄ませて、健常児をはるかにしのぐ力作、名作を制作している。

支援する側が支援している以上に、支援されているようなこともあるだろう。
まずは、どんな『支援』が必要か、本当の『支援』とはどういうことなのか、まだまだ勉強不足の私。
こういう研修を通して、日々の実践を通して自分自身のスキルアップを図りたいと思う。