守田です。(20141019 23:30)
明日に向けて(950)と(955)で、現代社会の矛盾、とくに市場原理主義の矛盾と社会的共通資本について論じました。宇沢先生を偲んでの記事でしたが、さらにそれを発展させて社会主義の捉え返しにチャレンジしていきたいと思います。
この試みは、明日に向けて(658)で取り組みを予告しながら、延び延びになっていたものです。市場原理主義の跋扈には旧ソ連邦や東欧社会主義の崩壊などが大きな背景をなしており、市場原理主義を説得力を持って批判していくために、社会主義の崩壊の捉え返しが必須だと思ったからです。
しかしこのときは、そもそも「社会主義とは何か」をあらかじめ措定しようとして、その概念の多様さの前で足踏みしてしまいました。一口に社会主義といってもかなりの広がりがあるためです。
しかし崩壊した旧ソ連や東欧社会主義諸国、あるいは日本の社会運動をみたときに、社会主義とはほぼマルクス主義と重なりレーニン主義とも多くの接点を持っています。そこで社会主義全般ではなく、マルクス主義、レーニン主義に結実した社会主義を対象とすることが一番必要性にあっていると考え直しました。
そこで、今回はロシア社会主義とは何だったのかということを「社会主義再考・・・2」として論じて行きたいと思います。
前提が分からない方はまず以下の記事を読んでからお進みください。
明日に向けて(658)社会主義再考・・・1 社会主義再考の執筆にあたって
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/aa3bd724ff687fbf9f6cc3bcfb5c5db2
1章ロシア社会主義は何を目指し、どこで挫折したのか
1、マルクス・レーニンの提言とロシア革命の現実
そもそも社会主義の目標はとな何だったのでしょうか。振り返るのに最適な文献はマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』です。同書は「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」という書き出しで始まります。
「全社会は敵対する二大陣営に、直接相対立する二大階級にますます分裂しつつある。すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートに」。(マルクス・エンゲルス (1848) 『共産党宣言』国民文庫26頁、27頁)
マルクスは目指すべきは、革命によってプロレタリアートが「支配階級として強制的に旧生産関係を廃止する」ことで「階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を…廃止する」ことだと述べました。
私的所有制を廃止し、共有制を実現することで、人間の争いの根拠である階級関係をなくしていくというのです。そのための前提は、資本主義による生産力の発展によってもたらされるとされました。
レーニンの時代には、世界戦争の時代を迎えた資本主義の矛盾を解決し、真の平和を実現することがつけ加えられました。『帝国主義論』でレーニンは述べます。
「帝国主義とは資本主義の独占段階である」(レーニン(1917)『帝国主義論』国民文庫115頁)
「独占、寡頭制、自由への志向にかわる支配への志向、ごく少数のもっとも富裕なあるいは強大な民族によるますます多数の弱小民族の搾取」が行われている。(同上、161頁)
その支配の歴史に終止符を打つために、帝国主義同士の戦争を反政府闘争に転化し、各国で革命を起こして、共同で社会主義への移行を実現しようとレーニンは提起したのでした。
さらに『国家と革命』では次のように語られました。
「資本主義がこの発展を信じられないほど阻止していること、また、すでに達成された現代技術を基礎として大幅の前進が可能であることを見るとき、われわれは、資本家の収奪が人類社会の生産力の巨大な発展をかならずもたらすであろうと、確信をもっていう権利がある」。(レーニン(1917)『国家と革命』全集刊行委員会訳、国民文庫122頁)
だが革命は本当に、生産力の発展をもたらしたのでしょうか。またそもそも生産力の発展とは、手放しで賞賛できるものだったのでしょうか。
ロシア革命は世界で初めての社会主義革命でした。経済的に「遅れている」とされた農業国、新生ロシアの政権を担ったボリシェヴィキたち(もともとはロシア社会民主労働と多数派の意味。転じてロシア革命の主流を担った人々をさす)は、当初はヨーロッパで革命が連動して起こると期待していました。
社会主義への移行の条件は、工業の発達したヨーロッパの革命によって得られると、かなり広範に考えられていたからです。しかし1920年代前半に、ドイツで始まった社会主義革命が途中で敗北してしまい、ヨーロッパ社会主義革命の可能性が遠ざかってしまいました。
この事態を前に、革命ロシアの社会主義者たちは、深刻な論争を経ながら、やがて一国で社会主義の実現を目指す道を選択していくことになります。こうして1928年に第一次五ヵ年計画、翌年に農業集団化が始まりました。社会主義計画経済の採用でした。この間、革命の最も重要な指導者であるレーニンが1924年に死去し、ロシア共産党の実権はスターリンに移っていました。
1929年は世界大恐慌の始まりの年に当たっていました。資本主義諸国が恐慌で経済が麻痺状態になり、その後も深刻な痛手からなかなか回復できないことに反して、新生ソ連は計画経済を順調に推し進め、第一次に継ぐ第二次五ヵ年計画を1937年3月に短縮で達成。工業生産を1929年水準から一挙に4倍にまで跳ね上げました。
この事実は人々に社会主義の資本主義に対する優位性を強く印象づけました。このため資本主義諸国でも、野放しだった自由競争への政府による介入が開始され、やがてケインズ政策が生まれていきました。ソ連邦の経済成長五ヵ年計画は資本主義各国に深い影響を与えるほどの「大成功」を印したのでした。
しかし実はこの時、ソ連内部ではとんでもないことが進行していたのでした。農業集団化の過程で、何百万人という農民が捕らえられ、収容所送りとなっていたのです。この恐怖政治は次第に共産党内部にも広がり、1930年代には粛清によって次々と党員が処刑されてしまうまでになりました。
この結果、例えば1934年の中央委員会総員71名、同候補68名のうち、1939年の中央委員会総会まで継続したものは、中央委員16名、同候補は24名にすぎませんでした。消え去った115名のうち、98名が銃殺されてしまったのです。(菊池昌典(1972)『歴史としてのスターリン時代』筑摩書房119頁)
このスターリンの指揮したあまりに暴力的な行いは、1956年のスターリンの死去後にソ連邦の書記長となったフルシチョフによって暴露され、「スターリン主義」と呼ばれて批判されるようになりました。
しかし告発を行ったフルシチョフはこの傾向をスターリンの個人的傾向と断じ、社会主義の中に孕んだ矛盾としては捉えず、何らの主体的反省もしませんでした。そのため「スターリン主義」と呼ばれた傾向は、その根拠を掘り下げぬままに放置され、やがてさまざまな社会主義勢力が繰り返しあらわすようになってしまいました。問題をスターリン一人のせいにするのは間違っていたのです。
後年になってロシアの歴史家ロイ・メドヴェージェフ(1924~)は、この抑圧が行われた要因が1917年の10月革命初期に既に形成されていたという指摘を行いました。(メドヴェージェフ『10月革命』(1979)石井規衛訳、未来社)
革命直後にロシア共産党(ボリシェヴィキ)が、農村から強引な食糧徴発を行ったのですが、そこにスターリン主義の発生にいたるロシア革命の誤りの出発点を求めたのです。
第一次世界大戦末期に革命を起こしたロシアは、当初、各国の干渉を受けて内戦が継続し、経済が混乱していて、貨幣が通用しない状態にありました。このため都市と農村を往復する「かつぎ屋」と呼ばれた商人が物流を担っていました。
ところがロシア共産党の革命家たち=ボリシェヴィキは、もともと私有財産制のもとでの市場経済に批判的であったことから、そのまま貨幣を廃止すれば、社会主義が実現できるのではないかと考え、統制経済に乗り出してかつぎ屋を摘発し、農村に政府の配給物資と交換に、食糧を提供することを申し入れたのでした。
しかし農民たちが混乱の中にある政府の実力を危ぶんで信用せずに拒んだため、かつぎ屋による物流が途絶えていた都市に飢餓が押し寄せてきてしまいまいた。
するとボリシェヴィキの人々は、武装した労働者による「食糧徴発隊」を農村に送り込んで、農民から暴力的に食糧を奪い始めました。当然にも農民の抵抗が巻き起こり、都市の飢餓自身も拡大してしまう悪循環が生み出されました。
そればかりか、ロシア革命の有力な担い手の一つであり、「革命の牽引車」と言われていたクロンシュタット軍港に集う水兵たちの間に農民への同情が生まれました。水兵たちの多くが農村出身だったからでしたが、水平たちの同情はやがて革命政府に対する反乱に発展していきました。
すると政府は革命の有力な担い手だった水兵たちを「帝国主義の手先」とののしり、ロシア政府の労働者を主体とした軍隊である「赤軍」を派遣して、反乱を凄惨に鎮圧してしまいました。(イダ・メット(1938)『クロンシュタット叛乱』蒼野和人、秦洋一訳 鹿砦社)
窮地に立ったボリシェヴィキ政府は、この反乱の最中の1921年3月、共産党大会を開いて「新経済政策(ネップ)」を採用し、農民からの穀物徴発の中止と、かつぎ屋の摘発によって停止していた市場の復活、容認を決定しました。これによって農民反乱は徐々におさまり、都市への農産物の流入も再開されていきました。
歴史家のメドヴェージェフは、政府は当初から、このネップ路線を採用すべきだったと繰り返し述べています。農民から強制挑発などせずに、かつぎ屋も含めて自由な物流を認めるべきだったにもかかわらず、計画経済を強引に進めたのが間違いだったというのです。
確かにうなずける提起なのですが、しかしその後彼の絶賛する「新経済政策(ネップ)」は7年しか継続されませんでした。再び1928年から計画経済が採用されるに至ったのでした。なぜネップが継続できなかったのか、メドヴェージェフの提起では解き明かしきれません。
この点について、日本の哲学者の廣松渉(1933-1994)は、要するにネップはうまくいかなかったのだと述べました。(廣松渉『マルクスと歴史の現実』(1990)平凡社258~260頁)。
そもそも農業国だったロシアには、工業化の前提になる資本の蓄積が欠けていました。その達成を急ぐには、農業から生まれる利益を、工業に配分していく必要があるとボリシェヴィキは考えました。
食糧危機を乗り越えるためだけでなく、社会主義に向かうための工業化を、農村から生み出される富の、国家への集中によって進めようとしたのでした。
しかし穀物徴発は再び農民との紛争を生み出すので、ネップでは「鋏状価格差政策」が取られました。工業製品に比べて、農産物が安くなるような操作が行われたのです。
しかし農民に不利な政策の下に不満がくすぶりだし、1928年に再び穀物提供が拒まれ始めてしまいました。
ここに至って、スターリンのもとにソ連邦政府は五ヵ年計画と農業集団化を提起したのでした。それはネップ以前の強硬な工業化政策への舞い戻りであり、農民との争いの再開を意味しました。
しかもこのとき政府は、以前よりもより徹底した政策を準備してのぞみました。集団化に従わない農民を「富農=人民の敵」と規定し、次々と捕らえて収容所に送ってしまったのでした。従わないものを暴力的に排除してしまうこの政策は、やがて国内に蔓延していきました。
こうした圧制の発現は、農業国ロシアで無理に社会主義計画経済を実行しようとし、工業化の原資を農村から得ようとして、農民と衝突したことによって構造化されたのでした。
後に「スターリン主義」と呼ばれたこのあり方は、もともと革命後にスターリンと鋭く対立して「ボリシェヴィキ左派」と呼ばれたトロツキーやプラオブラジェンスキーらが積極的に主張したものでもあり、けしてスターリンだけの考えではありませんでした。
とくにトロツキーは、「社会主義に向かうための労働は、軍隊的に組織すべきであり、農民を強制していくべきだ」とも主張していました。ロバート・ダニエルスは、この点をとらえて「その経済的思考においては、トロツキーは最初期スターリニストであった」 と指摘しています。(ダニエルス(1959)『ロシア共産党党内闘争史』対馬忠行ら訳、現代思潮社上巻99頁)
説得が性急だったこと以上に、ボリシェヴィキが共有していた農業を犠牲にして工業化し、生産力を一挙に上げようという考え方に、根本的な問題があったのです。
続く