守田です。(20141017 10:30)
現代社会の矛盾の根本がどこにあるのか。社会的共通資本の考え方は、これをいかに正そうと言うものなのかについて論を進めて行きたいと思います。
現代社会を大混乱させている根拠、とくにさまざまな対立を激化させている大本にあるものは、市場原理主義=新自由主義であると僕は思っています。
市場原理主義とは資本主義社会を崇拝し、すべてものを市場に委ねれば良いとする立場で、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンらによって流布されてきたものです。
1970年代のケインズ経済学の行き詰まりの中で登場してきたもので、1980年代以降、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権などに採用されました。
市場原理主義は政府の市場への介入をすべて無駄なこと、すべきではないこととして排除しようとします。
なかでもやり玉にあげられてきたのは社会保障制度です。この制度は20世紀に入り巨大な発展を遂げた資本主義社会が、1929年のアメリカウォール街にはじまる世界恐慌を引き起こし、第二次世界大戦にいたる社会的混乱を広げたこと。
またその恐慌なども契機としつつ、社会的な貧富の格差が極度に広がり、さまざまな社会不安をもたらしたことに対する資本主義社会の側からの反省を媒介に進められてきたものでした。
これらをまとめ上げたのが、イギリスのジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)だったため、これらの政策が「ケインズ経済学」の名のもとに一括されてきたのでした。
特徴は政府が市場に介入することにあります。とくに当初、重要視されたのは世界恐慌後の不景気の長期化に対して、政府が積極的に財政支出を行い、有効な需要を作り出していくことでした。
一方で問題とされたのは、好景気になると次第に経済が過熱し、放置しておくと金融バブルが生まれ、やがてはじけて恐慌が起こることでした。
これに対しては政府系銀行の貸し出し金利である公定歩合の操作で市場への資金の出入りを調整するなど、政府が積極的に市場に介入して、バブルにいたらない穏やかな発展を維持することが目指されました。
貧富の格差の拡大に対しては、累進課税制などさまざまな所得調整を行いつつ、医療保険制度や失業対策など、社会保障制度を作り出し、社会的弱者をある程度「救済」することで、社会の不安定化を防ぐことが目指されました。
こうしたケインズ経済学にあっても、一方には政府による有効需要の創出の側面により傾斜し、軍事支出もまた需要の喚起=経済拡大の呼び水だとして積極的に進めていく右派ケインズ主義の立場が生まれ、アメリカをはじめとする各国政府に影響を与えて行きました。
一方で社会の安定化のためには所得調整をさらに推し進めて富める者から貧しい者への資産の移動を促進し、社会保障制度を拡充して社会の安定化を深めるべきだとする左派ケインズ主義の立場がありました。
ケインズ高弟の中で、後者の立場を積極的に進め、資本主義の矛盾を改善しようとした経済学者にイギリスのジョーン・ロビンソン女史がいましたが、宇沢先生もまたこうした立場から社会の真の豊かさの拡大を目指しておられました。
その宇沢先生は当時、アメリカのシカゴ大学に在籍していましたが、そこに居合わせたのが市場原理主義を推し進めた経済学者ミルトン・フリードマンでした。
宇沢先生はこの時のフリードマンの人となりを伝えるエピソードを繰り返し説かれています。その一つを経済ジャーナリストの内橋克人さんがまとめられた『経済学は誰のためにあるのか 市場原理至上主義批判』(岩波書店)の宇沢先生と内橋さんの対談の中から引用します。
「1965年に私はシカゴ大学にいたのですが、お昼は教授たちがみんな一緒に食事をするのです。ある日ミルトン・フリードマンが興奮して遅れて食事の席についてこういう話をしました。
コンチネンタル・イリノイ銀行というのがシカゴにありますが、その日の朝、フリードマンは銀行の窓口に行ってイギリスのポンドの空売りを1万ポンドしたいと申し込んだそうです。
そのとき1ポンド=2ドル80セントだったのですが、それが2ドル40セントに切り下げられることがほぼ確実にわかっていて、事実その二週間後に切り下げられたのですが、そのとき空売りすると、巨大な投機の利益を得ることができるのです。
しかしその銀行のデスクがフリードマンに向かって答えたのは、「ノー、われわれは紳士(ジェントルマン)だからそういうことはやらない」ということだった。
フリードマンはそれを聞いてカンカンになって、帰ってきて、資本主義の世界では儲かるときに儲けるのがジェントルマンなのだと、真っ赤になって大演説をぶったのです。」(『同書』p5、6)
少し説明を加えると、空売りとは手元にないものを売ることです。銀行から1万ポンドを借りて売りに出す。すると1ポンド2.8ドルですから28000ドルが手に入る。ところが二週間後にポンドは切り下げられて1万ポンドは24000ドルになります。
このため24000ドルを借りた1万ポンド分として銀行に返せば、フリードマンの手には4000ドル残ることになります。元手もなしに4000ドルが登場するのです。こうした儲けのあり方を、生産に投じる「投資」と分けて「投機」といいます。
「投機」では実際には社会的富の創造は全くなされていないのに、いわゆる「あぶく銭」が手元に入ることになる。このため「投機」を促進すると社会は「あぶく銭」を目当てに走り出します。これが過剰な期待を生み、バブルを生んで、やがてその崩壊である恐慌を生むのです。
コンチネンタル・イリノイ銀行はシカゴ大学のメインバンクだったそうですが、この頃はこうした「投機」こそが社会を腐敗させ、崩壊させるものだと認識していた。だから「われわれは紳士だからそういうことはやらない」とフリードマンの要求を突っぱねたのです。
ミルトン・フリードマンが求めたのは、こうした大恐慌の教訓から作られたさまざまな社会的規制を撤廃し、好きに「投機」のできる社会の実現でした。コンチネンタル・イリノイ銀行が示した節度、金融を社会的共通資本として扱う「紳士さ」の解体こそが、フリードマンの目指したものでした。
そうであるがゆえにフリードマンの見解は軽蔑され、当初は誰にも見向きもされませんでした。そればかりか、このころシカゴ大学で経済学者たちを指導していたもともとの「シカゴ学派」の指導者であるフランク・ナイト教授がこれを聞いて激怒。フリードマンと彼の盟友のジョージ・スティグラーを破門してしまいました。
ナイト教授はシカゴ大学の経済学者たちを集めて「今後二人は自分のところで博士論文を書いたということを禁止すると言い渡した」(『同書』p7)そうです。ちなみにナイト教授は、アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下に対して倫理的責任を感じ、広島の孤児の女の子を養女としたことでも有名な方です。
このため本来、フリードマンは「シカゴ学派」を名乗る権利はないのですが、その後にフリードマンらの信奉者が「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるようになり、「シカゴ学派」の名は市場原理主義者の代名詞へと歪められてしまいました。
このように孤立していたフリードマンが脚光を浴びるようになったのは、先にも述べたケインズ経済学の行き詰まりのためでしたが、現実にそれを促進したのはアメリカのベトナム戦争へののめり込みと、その末の敗北でした。
実はこの戦争に右派のケインズ経済学者は積極的に関わっていました。戦争もまた積極的な「有効需要の創出」としてとらえられたからでもあります。しかし実際にはアメリカはベトナムでの浪費のもとでの敗北によって疲弊してしまいドル本位制を維持できなくなりました。
こうして1971年に「ニクソン・ショック」が起こり、それまで行われてきたドルと金との交換が停止されました。世界は「変動相場制」に移行し、不安定さを増していきましたが、これに1973年の産油国による「石油戦略」の発動が追い打ちをかけました。いわゆる「オイルショック」です。
資本主義各国はスタグフレーションと言われる経済苦境に陥りました。問われていたのはアメリカの覇権のもと、戦争経済を中心に需要を喚起してきたいびつなあり方の反省でしたが、そうした生産的な方向性は生まれませんでした。
このとき各国指導者が飛びついたのが、それまでは社会を混乱させる考え方として避けられていたフリードマンの主張でした。主張といってもフリードマンが唱えたのは、レッセ・フェール=自由放任への舞い戻りにすぎませんでした。
フリードマンが固執したのは、かつてコンチネンタル・イリノイ銀行が示したような「投機」を戒めるさまざまな社会的規制を撤廃してしまい、資本主義を弱肉強食の争いの場へと戻すことでした。競争こそが経済を発展させるのだと大恐慌の反省など無視して強調されました。
同時にフリードマンは社会保障制度も激しく攻撃しました。弱者を救済するから弱者は働かなくなるというのです。もともとフリードマンは、黒人が貧しいのは黒人が若いころ怠けて技術を習得しなかったからだというようなことを平気で語る差別主義者でもありました。
この考えが採用されたとき、それまで貧富の差を軽減されるために取られていたさまざまな施策が無効化されました。累進課税制も低減され、富める者の税金は安くなり、貧しいものの税金は高くなりました。消費税のように一律に課税される不平等税制がもてはやされるようになりました。
1980年代から今日までの35年近く。およそ世界はこのような市場原理主義を基調に動いてきました。当然ですがそのために投機が流行り、何度もバブルが形成され、はじけて大混乱が起こりました。
アメリカでそれを象徴するのがコンチネンタル・イリノイ銀行のその後でした。かつては「紳士」としての態度を貫いたこの銀行は、徐々に態度を変えて行き、ニクソン・ショックのときに投機に走りました。
このとき狙われたのは東京市場でした。それまで1ドル=360円だったものが劇的な円高になっていったわけですが、非常にミステリアスなことにこのときに東京市場だけが閉鎖することなく二週間開いていて80億ドルと言われる大量のドル売りが行われてしまったのです。
日本経済は大変なダメージを被り、その後の日本の金融が攪乱されてしまいましたが、この時、コンチネンタル・イリノイは最も儲けたと言われています。すっかり節度を失ったこの銀行はその後もさまざまな投機に手を出し、全米で7番目の銀行に膨れ上がったところで1984年にはじけて倒産してしまいました。
コンチネンタル・イリノイの倒産は日本のバブルの発生の前に起こったことですが、日本経済もそのあとを追っていってしまいました。1980年代後半、中曽根政権のもとでどんどんバブルが形成されていき、やがて一気にはじけて長い経済的苦境が始まりました。
バブルの発生はただそれだけが恐ろしいのではなく、コンチネンタル・イリノイの例にもあるように、その過程でさまざまなモラルや節度が壊されていき、金儲け主義がはびこっていくことです。あぶく銭を追うことで、社会からモラルが失われ、節度が摩滅しきったのちに経済崩壊がやってくるのです。
この35年世界が歩んできた貴重的な流れがこれです。近年でもリーマンショックなどが起こりましたが、その前におよそ考えられないようなモラルを欠いた貸付の横行がありました。相手が返せないことなどわかっていながらお金をもたせ、消費させることが横行していたのです。
このようなことが続いたのちに経済が破裂すると、社会の中には不穏当な恨みつらみが蔓延してしまいます。とくに経済競争に負けた人々の中に怨嗟が渦巻いていく。そればかりではありません。若者にまともな職がなく、未来の展望もないような状態が生まれ、その中で一部のもののみの栄華が続いてゆくのです。
私たちが今立っているのはそんな状態の世界ですが、こうした社会を作り出したミルトン・フリードマンやその考え方と終生にわたって論争し、闘われたのが宇沢先生でした。弱肉強食のあり方をやめ、真に豊かな社会の創造へと舵を切り替えていくことを先生は叫ばれ続けました。
宇沢先生には市場原理主義の跋扈に世界を委ねればどんな悲惨なことになるかがはっきりと見えていました。だから先生は社会的共通資本を論じることで、人々の幸せを根底から支える大事なものを身体をはって守られようとされたのです。
とくに晩年、先生が力を注がれたのは社会的共通資本としての医療を守ることでした。宇沢先生は職業に貴賤がないことは前提としつつも、医療、教育、そして農の営みをもっとも重要な社会的共通資本と考えられ、医療者と農民や第一産業に従事されている方たちを最も尊敬されていました。
病から人を守り救うこと。命を尊ぶこと。そして命を育てること。命を育てる源の食べ物を作り出すこと。そこに宇沢先生は最大の価値をおき、その上に社会的共通資本の考え方を組み立てられました。
今日、世界はますます混迷の度合いを深めています。日本にも小泉政権によって中曽根政権以上に露骨な市場原理主義が持ち込まれ、労働者の権利が次々と無化されて、正規雇用が大幅に削減されてしまいました。日本の若者の多くが正職を得ることができず、貧困にあえいで未来を展望できずにいます。
いやそれだけでなく、投機を全面的に容認する市場原理主義の跋扈のもとで、日本経済からも節度が失われ、モラルハザードが相次いできました。産地偽装や手抜きなどが横行し、「ブラック」と呼ばれる企業までが多数、登場するようになりました。
社会の中から正義感が摩滅し、あぶく銭を求めて奔走する守銭奴が増え、社会の連帯感が失われてぎすぎすしています。こうした中で差別が横行し、ヘイトクライムまでが起きるようになってさえいます。すべては弱肉強食の市場原理主義がもたらしているものです。
私たちはこの流れを断ち切らなくてはいけない。そのために私たちにとって有力な拠り所となるのが社会的共通資本の考え方です。ぜひ多くの方に学んで欲しいです。
僕自身、宇沢先生に教えていただいたたくさんのことを守り、育み、発展させ、この考え方を深化させていきたいと思います。
そのことで宇沢先生への恩に少しでも報いたいです。また宇沢先生が示された人々への愛に少しでも近づき、世の中をよくするため、明るくするために尽力を続けたいと思います。
弱肉強食の世から、あたたかき、優しき世への転換。額に汗して誠実に働く人々がもっとも報われるとともに、今の世を覆うさもしい心情が下火になる、もっともっと愉快な社会の創造をこそ、先生と共に目指していきます。
宇沢先生のすべての問い、実践、残された課題を微力ながら懸命に背負ってこれからも走り続けます。宇沢先生、ありがとうございました。本当に、本当に、ありがとうございました。