守田です。(20141027 22:00)ポーランド現地時間
ポーランド国際会議、その後も順調に進み、大成功のもとに終わりました!1日目以降の流れを大まかに紹介します。
2日目は幾つかに分かれて会場のあるヴロツワフを観光しました。
これは会議の主催者であるドイツのIBBがドイツからベラルーシ、ウクライナにかけての地域を主な展開地域としており、その中心に位置するポーランドを今回会議に選んだため、少しでも参加者にポーランドを知って欲しいと企画されたものでした。
僕は近郊にあるシナゴーグとシフィドニツアの平和教会を訪れました。ここはシロンスク地方に位置しています。現在のポーランド南西部とチェコ北東部、ドイツ東部を含みシレジアとも呼ばれます。
ヨーロッパでは1618年から1648年まで三十年戦争と言われる戦いが巻き起こりました。プロテスタントとカソリックの宗教戦争の様相を呈しつつも、同時に当時のヨーロッパでもっとも支配的だったハプスブルグ家(カソリック)対諸侯の戦い、あるいは形成されつつあった近代ヨーロッパ諸国による発の世界大戦としての位置も持つ戦いで最終的にはハプスブルグ家の敗北に終わり、諸侯の地位が強化されました。
終戦によってウエストファリア条約が締結され、その後のヨーロッパの支配秩序を規定していくことになったのですが、このときシレジアはハプスブルグ家の支配地域として認定されました。ところがこの地域には多くのルター派(プロテスタント)の人々がすでに住んでいました。9割近くがプロテスタントだったとも言われています。ハプスブルグ家はここでの新たなプロテスタントの人々との争いを避けるため、自らはカソリックの支配者として統治しながらプロテスタント教会の設立を認めました。
しかし、教会の建設にレンガ等耐久材を使ってはならない、着工から1年以内に完成させねばならないなどの無理難題が課せられたため、教会は木造で建てられたのでした。天井もよくあるアーチ型等をとりようがなく、質素ながらしかし荘厳な雰囲気を作るための苦心が施されました。
教会はウエストファリアの平和にちなんで「平和教会」と名付けられ、地域に三つ作られました。その後、一つが消失したため、今では二つ残るのみですが、ユネスコによって世界遺産に登録されています。非常に深い歴史をもった教会で、ポーランドやヨーロッパの歴史の一部に触れる思いがしました。
3日目は朝7時半から、200名ぐらいの参加者のうちのキーパーソン30人ぐらいが集まって今後のことを討議。インターナショナル・チェルノブイリ・ネットワークの創設のことなどが話し合われました。
このネットワークはすでに8カ国の市民たちの参加によって進められてきていますが、今回の国際会議を機会に大きく広げようとのことで新たに「国際」という名前が冠されたとのこと。さらに日本やトルコにも入って欲しいという呼びかけがなされました。組織参加であるため日本ではFoE JAPANが呼びかけられ、会議に参加した吉田明子さんが持ち帰って討論することになりました。会議ではトルコのプナールさんも前向きな内容を発言しました。
その後、ホールに移動し、高木仁三郎さんの盟友、マイケル・シュナイダーさんが講演。これは凄く良かった!
何が良かったのかというと、核産業の動向を丹念に追いながら、いかに原子力産業が世界的に斜陽産業になっているのかが参加者の前に明らかにされたからです。僕もこうした視点を自分の講演などにもっと取り入れようと思いました。
ちなみにマイケル・シュナイダーさんに岩波ブックレット『内部被曝』をお渡ししました。息子さんが日本の大学で研究されているそうで、日本語も読めると聞いたからです。シュナイダーさんに頼まれて息子さん宛にサインをさせてもらいました。
その後、午後に幾つかに分かれてワークショップ!僕はヨーロッパとカザフスタンと日本における核の位置と民衆にいかに核の危険性を知ってもらうのかを語り合うセッションに参加し、日本の脱原発運動の成長についての報告をしました。
僕が強調したのは、これまで政治に一番参加しにくかった子育て世代の女性たちが日本の脱原発運動を力強くリードしていることです。これはオープニングセッションでも語ったことですが、今回はより詳しく説明し、会場の深い共感を得られました。ちなみに今回も京都で行われた「原発いらないコドモでも」の写真を使わせていただきました。
このセッションにはカザフスタン政府関係者も参加していました。セミパラチンスクが旧ソ連の核実験場に使われて沢山の人が被曝しているからです。
しかし政府関係者なので必ずしも原発には反対でもない。その点で難しさがありましたが、僕としては被曝の苦しみへの共感を全面的に押し出して、心からの連帯の意思を込めて自分の発言をしました。そうしたらセッション後にはとても親しくなれました。会議後に一緒に写真もとれて嬉しかったです。
ちなみにこうしたことが可能になったのは、またまたトルコのプナールさんか僕の通訳をしてくれたからです。彼女はアクティビストとして参加していて通訳者として呼ばれたのではなかったのですが、急遽、主催者の要求を受けて、英語通訳を引き受けてくれたのでした!
ただカザフスタン、セミパラチンスクのことについては僕の中で多くの宿題ができたとも思いました。とくにカザフスタンに入って被爆者調査をしている日本人科学者の活動について調べる必要がある。低線量被曝や内部被曝の影響がきちんと評価されているようには思えなかったからです。こうして点について京都の石田先生などに聞いて内容を深め、そこから得られた知見を可能な限り、カザフスタンに書き送りたいとも思いました。
さて、それやこれやいろいろありながらワークショップも終え、翌日は締めの最終セッションが行われたました。前日のそれぞれのワークショップの報告がなされるとともに、インターナショナル・チェルノブイリ・ネットワークに会議に参加していた複数のリクビダートルの方達が参加することが決まったこと等が報告されました。それらを通じながら、今後も一緒に頑張ろうと大いに盛り上がって終わりました。
なおこの会議にはベラルーシやウクライナから沢山のチェルノブイリ原発事故の当事者が招かれていました。リクビダートルの方も本当にたくさん招かれていた。科学者やジャーナリスト、知識人などが主体ではなく、現場の人々、現に被害を受け、その中から未来を展望しようとしている人々を主軸に据えて国際会議を運営しようとするドイツIBBの姿勢が強く現れていて、深く共感しました。もちろんリクビダートルの人々と数日間を一緒にできてたのは僕にとっても実に素敵な体験でした。
現場の人を主体にということで言えば、僕自身も、ジャーナリストというよりは、現場に関わっているアクティヴィストとして呼んでもらえました。そのため紹介も「ブロガー&アクティヴィスト」になっていました。それもまた嬉しいことでした。
この日は10時には散開になりました。あちこちで別れを告げる握手、ハグなどを行ったのち、それぞれに空港や駅にバスで向かっていったのですが、この帰りのバスの中で、僕はドイツから参加したアンゲリカ・クラウセンさんやアルパー・オクテムさん、ドイツ在住日本人の桂木忍さんとごろうさん(ごめんなさい。姓を失念しました!)。また東京から参加した吉田さんと一緒でした。ここでもまたミーティング開始。来年のヨーロッパ・アクション・ウィークでまたトルコで何かをしよう、積極的にIBBに持ちかけようと盛り上がりました。・・またトルコに行くことになったら光栄です。いや、なんとしても行きたいです!
ともあれ、4日間、素晴らしい場に参加できて本当に光栄でした!!
なお次回より、僕のオープニングセッションやワークショップでの発言内容などなどもご紹介します!