昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (三百五十九)

2023-06-01 08:00:42 | 物語り

 ジュージューという音が、食欲をそそる。はじめて見るビーフステーキなるものに、竹田の視線がはずれない。
「これが、ビーフステーキなんですか? なんとも、醜悪な形ですね。
色も、何とも奇妙です。でも匂いがいいです。腹の虫が泣いてます」
「さ、召し上がれ。こうやってフォークでお肉を押さえて、ナイフで切るのよ。
ほら、肉汁が凄いでしょ?」
「小夜子奥さま。赤いところがあります。これ、生焼けじゃないですか。
けしからんな、こんなものを小夜子奥さまにおだしするなんて」

 憤慨する竹田に、目を細めてこたえた。
「それがいいのよ、生の部分はわざと残してあるの」と言いつつも、今日に限っては食欲がない。
それ以上に、嘔吐感さえおぼえる。“したたる血のせいかしら?”と、武蔵の不在のせいだとは思いたくない小夜子だった。
隣のテーブルで水をつぎ足している給仕に「お給仕さん。きょうはもう少し焼いていただける?」と告げた。
「かしこまりました」。皿を下げる様子に気付いた給仕長が、血相をかえて飛んできた。
「御手洗さまの奥さま、大変申し訳ございません。なにか粗相がございましたでしようか?」と、深々と頭を下げる。
驚いたのは小夜子だ。なにごとかと、ほかの客たちの視線が、一斉に小夜子にそそがれた。

 厨房から料理長もあらわれ、小夜子のひと言を不安げに待っている。
「違うのよ。なんだか今夜はね、ミディアムで食べたくなったの。
あたしの、我がままなの。このお給仕さんは、なにも悪くないから」
「左様でございますか」。給仕長も、ほっと胸を撫で下ろしている。
青ざめていた給仕の表情が、見る見る笑みを取り戻した。眉間にしわを寄せていた料理長の表情もゆるんだ。
「すぐに新しいお肉をご用意いたします」
「あら、これでいいじゃない。このお肉を焼いてちょうだいな」
「とんでもございません。二度焼きいたしますと、肉がかたくなってしまいます」
「でもあたくしのわがままだから……」という小夜子だったが、改めての調理となった。

 しかしミディアムに焼かれた肉も、小夜子が食することはなかった。
「竹田、食べてくれる?」と、竹田に差し出された。
「小夜子奥さま。どこか、具合でもお悪いのでは?」
 小食ではあるが、なにも食べないということはない小夜子だ。
たくさんの種類を並べて、少しずつ箸をつけるのが小夜子の常なのだ。
「大丈夫よ。さ、キャバレーに行くわよ。フルバンドを楽しみたい気分だわ、今夜は」
「今夜は、お帰りになられては如何ですか。またという日もありますし。
すこしお顔の色がお悪いように見えます。社長に叱られます、これでは」



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