思えば順風満帆の人生だった。
世間に名のとおった商事会社で、熾烈な出世レースに勝ちぬくために、つねに走りつづけていた。
充実した毎日だった。そんな男が犯したミス。
ミスというにはあまりにも間の抜けた事、丸秘扱いの企画書を同僚との酒宴の席に置き忘れてしまったのだ。
普段ならば決して持ち帰らない男だったが、翌朝、取引先に直行するために持ち出してしまった。
上司である部長とともに商談をすすめた案件で、大口の取引になる筈だった。。
今夜は、祝杯の意味もあっての酒宴だった。
というよりは、労をねぎらい合うといった方が正確だろう。
同僚に「前祝いだ」と強く誘われた。
いちどは、「明日にそなえてきょうはやめとくよ」と固辞したのだが、「水くさいじゃないか」と何人かに取り囲まれては帰るわけにもいかない。
翌朝企画書の紛失に気がつき、すぐさま店に連絡を取ろうとしたものの、早朝では連絡の取りようもない。
「ひょっとして誰かが……」と、恥をしのんで同僚に連絡をいれてみたがやはりだれももち帰ってはいなかった。
昼過ぎに、その店からの連絡でおきわすれれた企画書が戻ってきた。
しかし取引先での会議は終わっており、とうぜんのごとくに取引はキャンセルとなった。
しかも、同時進行していた他部署の案件についても、「検討しなおします」との通告がとどいた。
謝罪に出かけたけれども、けんもほろろで追い返された。
男の二ヶ月をかけた労力は、水泡に帰した。部長の面目も潰してしまった。
とうぜんのごとく、男の会社での評価はおちた。
「解雇をいいわたされないのが不思議なくらいだ」と、社内での風当たりは強かった。
けっきょく、1週間後に資料室行きを言い渡された。
そのことから、社内恋愛中の女性ともうまく行かなくなった。
女性が男の将来に見切りをつけたのか、それとも愚痴をこぼしつづけた男に嫌気をさしたのか。
「もう、わたしたちダメね。別れましょう」
女性からのプレゼントである、ダイヤカットのライターがやけに重く感じられた。
そしてそのシルバー色がやけに冷たく感じる。
手のふるえを悟られないように、タバコに火を点けながら、「そうか」と、短く答えるだけだった。
ひとりとり残されたテーブルには、手がつけられていない冷めたスープがあった。
「いかが致しましょうか?」
遠くからふたりの成り行きを見つめていたウェイターが問う。
「すまない、今夜はこのまま帰るよ。……すこしいいかな、時間」と、力なく答えた。
ウェイターは笑みを絶やさず、「どうぞお気兼ねなく」とうなずいた。
男はたばこをくゆらせながら、ぼんやりと窓の外を見た。
いつの間にか雨になっていた。
「涙雨か……」。 ポツリと呟いたことばに、スープ皿を片づけていたウェーターが「はっ、なにか?」と聞きかえした。
「いや、なんでもない」と、あわてて男は否定した。
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