昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

恨みます(九)

2022-05-22 08:00:28 | 物語り

「課長。申し訳ありませんが、きょうは早退させてください」
「うん? どうした、吉永くん。早退したいだなんて、君らしくもない。
淋しくなるじゃないか、君が居ないと。まさか、デート、かな? 
いや、それはないか。太陽が西から昇ることがあっても、君がデートというのは有り得ん・・。
どうした? 気分が悪いのか? 分かった、分かった。すぐ、帰りなさい」
 真っ青な顔色の小百合に気付いた課長の木下が、慌てて課内を見わたした。
「えぇっと、誰か、居ないか、と。おぉっ、山本さん。すまんが、吉永君をたのむよ」
 クスクスと失笑がこぼれていた課内に、サッと緊張が走った。

「今日の課長、いびり過ぎだぜ」
「ちょっと、今日のはきつかったな」
「来たときから、何だか辛そうだったよね」
「うん。顔色、悪かったね」
 いつもは課長のいびりを愉しんでいる女子社員たちも、今日ばかりは小百合の味方だった。
エレベーターが開いたとたんに転がり出てきた小百合を、始業時間ギリギリだったこともあり
「ほらほら、遅刻になっちゃうわよ」と嫌みたらしいことばが投げつけられた。
普段なら「すみません」とあやまるのだが、今日にかぎっては無言のまま席に着いた。
いや着いたというより、必死の思いでたどりついたように見えた。

ビル内の受付前をとおり、閉じる寸前のエレベーターに滑り込むまでは、小百合の精神も身体も普段通りだった。
ところがドアが閉まり狭い空間となったとたん、人いきれにやられてしまった。
昨日までなら耐えられたはずなのに、今日ははげしい胸苦しさを感じた。
“病院に行ったほうがいいかしら。でもやり残した書類があるし……”
“大丈夫。ここから出られたら落ち着くわよ”
 大げさではなく、人生初の痴漢行為を受けて、激しい動揺のおさまらない小百合だった。
“あの方の、堀井一樹さんの言ったとおりだったわ”。
突然に一樹の顔が浮かんで、胸の動悸が烈しさをました。

「山本さん、急いで。吉永君、しゃがみこんじゃった」
 小百合の傍でオロオロとしながら、木下が大声を上げた。
「はあい、いま行きまーす」
 いかにも面倒を押し付けられたと、不満げに山本が寄ってきた。
「吉永さん、立てる?」
「大丈夫、です。歩けます、ひとりで」
「あら、そう。ですって、課長」

 汚い物を見るかのような、蔑みの目の山本だった。山本だけでなく、課内の全員がだった。
「吉永さんってさあ、名前でも損してるよねえ。よりによって、小百合だなんてねえ」
「ねえ、ほんと。本物がさ、気を悪くするんじゃなあい」
 日常的に、給湯室で交わされる会話だった。
「仕事も、ちょっと遅いのよねえ」
「慎重過ぎるのよ。ミスはないかもしんないけど、ちょっとねえ」
「だからあたしたちが目立つのよねえ、ささいなミスなのにさ」
ひと付き合いの悪さが原因ともいえるが、男性社員たちの間で交わされる会話もまたその原因でもあった。
「吉永って、首から下はサイコーだね。エアロビかなんかやってんのかね」



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