それではお話しをつづけさせていただきます。
まずは新宿方面に向かいました。
お店から銀座の百貨店に向かったと思わせるためでございます。
そして府中に向かったのでございます。
なぜそんなまどろっこしいことを?
そう思われますのが当たり前でございましょうね。
正夫のことです、駅まで付けてこないともかぎりませんわ。
若いツバメが、などと疑心暗鬼になっていたようでございましたから。
とにかく、あの大木という官僚の奥方が、なにかやと吹き込んでいるようでございましたから。
そんなに正夫の嫁にとつがせたかったのなら、はやく話を進めればいいものを。
どうせ、のれん分けが本当のことなのか探りを入れていたのでしょう。
そうこうしている内に戦争ということになりましたからねえ。
グズなんですよ、大木という方は。
わたくしが府中の刑務所前のバス停におり立ったのは、十時をまわっておりました。
一子さんからは、兄は不安がっているから少し早めにでも、とこと付かっておりました。
遠回りをしたからではありませんわ。
わざとでございます。
三郎に対する意趣返し?
さあ、どうでございましょうねえ。
みなさん、善三さまのことばを信じてらっしゃるのですね?
バスの中から見える三郎の表情には、焦りの色とすこしの絶望感と、そしてそれでも期待の色が見えておりました。
一子さんからはどのように聞かされているのでしょう?
わたくしが正夫の嫁になっていることは、伝わっているのでしょうか?
恨み言などではなく、「父のたっての願いなんです」とお答えしておきましたから。
見栄? まあ、多少はございますですかねえ。
バスを降りましたわたくしの元に、三郎がかけ寄ってまいります。
どんな顔でくるのでしょうか、少しワクワクしますわ。
以前のように眉間にしわを寄せて?
破顔一笑? 眉を八の字にしてのすがりつき?
帝大生でもないのに、あの角帽を目深にかぶり、背をすこしまげて、でした。
そしてわたくしと視線を合わせることなく、「ありがとう」とひと声。
そこにはなんの感情もなく、ただ出迎えてくれた者へのお礼のことばでした。
思わず、「ご苦労さまでした」と応えていました。
わたくしの思いの中には、いろいろのものがありました。
眉間にしわを寄せていたならば罵詈雑言を。
破顔一笑ならば平手打ちを。
すがりつくならば、突きはなす。
ですがまさかの淡々としたお礼のことばに、まったくの他人行儀さを見せつけらて、怒りの気持ちがすーっと消えてしまいました。
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