(一)
「起こしてしまったか?すまん、すまん。」
階段の手すりを、しっかり掴みながら降りてくる。
まだふらつき気味の小夜子だ。
「何かあったの?」
「うん、五平を呼んだ。」
と、小夜子を抱えながら武蔵が答える。
「あたし、あの人嫌い。」
反射的に、小夜子の口から出た。
「そうか、嫌いか。そいつは困ったな。
俺にとっちゃ、福の神なんだがな。
何と言っても、小夜子に引き合わせてくれた、恋のキューピットさまだ。」
“嫌いよ、大っ嫌い!嫌い、嫌い、嫌い!”
心の中で、何度も呟く小夜子。眉間にしわを寄せて、嫌悪感をあらわにする。
あのような出会い方をしていなければ、これほどのことはなかったかもしれない。
キャバレーでのタバコ売り時代を知る、その五平が嫌いだった。
惨めな、小夜子にとって恥部と感じる時代を知るのは、武蔵一人で良かった。
“五平なんぞ、この世から消えればいいんだわ。”
負の時代を経ての今なのだが、小夜子には我慢ができない。
晴れやかな輝かしい道を歩きたい小夜子にとって、あってはならぬ道程だ。
たとえ今の生活を失っても、消し去りたい思いを抱く小夜子だ。
(二)
アナスターシアだけでいい、アナスターシアとの出会いだけでいい。
そう思い続けた小夜子。
しかし今、そのアナスターシアが消えた。
光り輝くはずだった未来が、消滅してしまった。
なのに小夜子には、他人事のように思える。
“かわいそうな人”と、呟く小夜子。
そこにいるのは、己ではない別の人間だ。
日々を泣き明かすであろう人、将来に絶望するであろう人、それは決して小夜子ではなかった。
“タケゾー”と呼びかけた小夜子、快活に振舞う小夜子。
別人格の如き小夜子、しかしいつまでその小夜子でいられるのか。
思いかえしてみれば、あくまでアナスターシアあっての正三だった。
アナスターシアを失った小夜子には、正三の居場所はない。
小夜子から、正三への思いが一気に薄らいだ。
この地に来る弾みをつける役目だった筈の正三。
単なるエスコート役の正三を、将来の伴侶と位置付けさせたのは?
そうなのだ、アナターシアの通訳を務めた前田なのだ。
前田の何気ない、ひと言だった。
“彼だったら、あなたの意のままじゃない?”
そのひと言が、小夜子の中に潜む、夜叉を呼び起こしたかもしれない。
“小夜子。お前を一番大事に思っているのは、この俺だぞ。
お前の望みを叶えてやれるのは、この俺だぞ。”
そんな武蔵の言葉に、嘘は感じない。
アナスターシアの居ない今となっては、誰よりも小夜子を満足させ得るのは、確かに武蔵なのだ。
しかし、伴侶はあくまで正三でなければならない。
“薄情な女じゃない”
貞節、という二文字が頭から消えない。
“いっそ、この世から消えて……”
誰のことを思い描いての言葉なのか……。
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