昭和の恋物語り

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長編恋愛小説 ~水たまりの中の青空・第一部~ (十) 楽しく笑いながら、サヨナラをする

2015-03-08 11:02:07 | 小説
「ごめんね、ボクちゃん。折角の楽しいデートを台無しにしちゃったね。
今度、埋め合わせをするから。今日は、ここで別れましょう。ホント、ごめんね」
そう言うが早いか、牧子は傘の中から飛び出した。
そして、踵を返して走り出した。

一瞬のことに、彼は唯立ちつくすだけだった。
呆然と、牧子の後ろ姿を見つめるだけだった。
と、突然に牧子が引き返してきた。
そして、彼の頬に軽くキスをすると「ホントにごめんね」と、耳元で囁いた。

「あの…」
彼の言葉を聞くこともなく、牧子はまた走り出した。
彼は、金縛りにあったのかの如くに、立ちすくんでいた。
そして小さくなっていく牧子を、じっと見続けた。
“彼氏に会いに行ったんだ…”

どこをどう通って、帰ってきたのか。
気が付くと、牧子のアパートの前に立っていた。
どうしても、このまま帰る気にならなかった。
もう一度、牧子に会いたかった。

恨み言を言うつもりはなかった。
泣き言を言うつもりもなかった。
いや、牧子に言葉をかけるつもりはない。
物陰に隠れて、見るだけで良かったのだ。

何故そんな気持ちになったのか、彼には分からないのだ。
牧子がいつ帰るのか、ひょっとして戻らないかもしれない。
それでも彼は、待ちたいと思った。
そうしなければ、明日への一歩が踏み出せない、と考えていた。

今日一日、牧子に振り回された彼だった。
朝のスタートでつまずいた彼は、主導権を握られっぱなしだった。
彼の思い描いたシーンは、思いもかけぬ形で叶えられた。
相合い傘然り、映画館内然り、バーでの酒然りと、満足のいくものだった。
唯一つ、突然のサヨナラ以外は。

そう、そうなのだ。
予期せぬサヨナラが、彼は不満だったのだ。
楽しく笑いながら、サヨナラをする筈だったのだ。
そして次のデートの約束をする、その筈だったのだ。


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