(三)
奥さま、という心地良い響きが、小夜子の胸をざわつかせる。
“ち、違うわよ。武蔵の妻だからじゃないわ。
言葉の響きに、対してのものよ。
そ、そうよ。武蔵の妻だからじゃないわ。”
「奥さま、奥さま。」
頬をぽっと赤らめる小夜子に、
「ご新婚なんですね。お幸せそうで、羨しいわ。」
と、からめ手からの話に切り換えた。
新婚? 式は挙げていない。
もちろん入籍もしていない。
ただ、同居をしている。
いやその前に、小夜子は妻となることを拒否している。
あくまで正三の妻となり、アーシアと世界を旅するのだから。
「こんにちわ。ちょっと早かったかしら?」
にこやかに微笑みながら、四十半ばの女だが入ってきた。
「いらっしゃいませ。少し待ってくださいね。」
女は待合い用の椅子に腰掛け、
「あぁ、いいわよ。
ヒマな身だから、いつまでも、なんだったら、夜まででも待ちますわよ。」
と、快活に笑う。
思わず吹き出す小夜子に、
「あら!どこかで会ったかしら?」
と、鏡の中の小夜子に目をとめた。
「また始まったわ、松子さんの会った病が。」
「うーん……、違うかなぁ……
勘違いかな?
ごめんなさいね。
ところでさ、千夜子さん。
奈美ちやん、アナ何とかって言うモデルのファンだったわね?」
「アナスターシアのこと?」
「そうそう、そのモデルさんよ。」
(四)
思いもかけぬ名が耳に入り、思わず聞き耳を立てる小夜子だった。
「デパート勤めの娘によるとね、どうも亡くなったらしいわ。
詳しいことはね、教えてくれないのよ。
口止めされてるってことで、口がほんと重いのよね。」
「小夜子さん、どうされました?
パーマ液に酔われましたかしら。
大丈夫ですか?」
「ほんと。すごく顔色が悪いけど、大丈夫?」
みるみる顔が青ざめ、わなわなと手が震える小夜子が鏡の中にいた。
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。
うそよ、大うそよ!
迎えに来てくれるんだから、きっと来てくれるんだから。」
まるで抑揚のない念仏のように呟く小夜子だった。
「あっ!」
素頓狂な声が店に響いた。
「思い出した! あなた、さよこさんでしょ。
この人よ。ロシアのモデルさんと一緒だった、日本の女性は。」
「ほんとなの? まぁ、すごい偶然ね。」
ふたりがかまびすしく話す中、小夜子は相も変わらず呟き続けている。
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。
うそよ、大うそよ!」
「さよこさん。あなた、さよこさんよね。大丈夫?」
「行かなきゃ、行かなきゃ。アーシアが淋しがってるわ。」
突然立ち上がった小夜子は、夢遊病者のようにふらふらと店を出ようとする。
「ち、ちょっと。危ないわ、そんな状態じゃ。あぁどうしょう。」
「ご家族に連絡を入れたら?」
「ご家族と言われても…。そうだわ!
さっき貰ったメモに、会社の電話番号が……すぐかけてみるわ。」
「さよこさん! ちょっと待って! 迎えに来てもらいますからね。」
外に出ようとする小夜子を、松子が必死の力で押し止めた。
「そうなんです、心ここにあらず、といった感じなんです。
すぐ来て頂けますか?
はい、看板は出しております。
電柱に矢印がありますから、それを見落とさないようお願いします。
それじゃ、ごめんくださいませ。」
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