5月1日(土)。今日から5月です 月初めにあたり4月の「3つの目標」の実績を振り返ると、①クラシック・コンサート=9回、②映画鑑賞=16本、③読書=5冊でした コンサートは、25日の都響スペシャルが新型コロナ禍の影響で中止になったのが残念でした
ということで、わが家に来てから今日で2303日目を迎え、ミャンマー支援のクラウドファンディング( C F )を立ち上げた今村真央・山形大教授あてに「日本の友人が見せてくれた慈悲は一筋の希望の光です。いかにして逆境から勇気をもって立ち上がることができるかを、私たちは日本の皆さんから学んできました」という手紙が届いた というニュースを見て感想を述べるモコタロです
C F には目標の9倍の4500万円が集まったと ミャンマー国民と共にありたい!
昨日の夕食は2週間に一度が恒例になった「鶏の唐揚げ」です 「卵スープ」も作りました せっかくスープを作ったのに、娘はワカメの味噌汁が飲みたいと言って自分で作りました 唐揚げが美味しかったから 別にいいです。自分で作る分には
昨日、渋谷のユーロスペースで代島治彦監督による2021年製作映画「きみが死んだあとで」(3時間20分)を観ました
1967年10月8日、ベトナム戦争反対の学生運動が盛り上がる中、当時の佐藤栄作内閣総理大臣の南ベトナム訪問を阻止するための第一次羽田闘争が展開された その中で、18歳の京大1年生・山崎博昭が死亡する 死因は機動隊に頭部を乱打された、装甲車に轢かれたなど諸説あるが、いずれにせよ彼の死は若者たちに大きな衝撃を与えた 山崎の死から半世紀以上経った今、当時の運動の中心だった者たち14人が過去を振り返る
この映画では、当時の学生運動の写真や動画が流れますが、ほとんどがモノクロです その一方で、過去の山崎博昭を語る14人の仲間たちはカラーで登場しますが、彼の死から半世紀以上も経過しているので皆 高齢者です 学生服姿の18歳の山崎博昭と70代の彼らとの落差が鮮烈です
第一次羽田闘争は、その後過激化する学生運動の端緒となった闘争で、初めてヘルメットや角材で武装した学生が機動隊を相手に闘った歴史的な闘争でした 高校時代から学生運動に携わっていた山崎博昭は京都大学に入学し、中核派のメンバーとして活動しますが、羽田で命を落とすことになります その後、全国的な学生組織・全共闘運動が活発化する中、中核派と革マル派との内ゲバが起こり、学生運動はついに連合赤軍のリンチ殺人事件まで起こすことになります
私は山崎博昭の2歳下なので、若い頃にほぼ同じ時代を過ごしていたわけですが、この映画を観ると当時のことがいろいろと思い出されます
映画の中で、何人かの仲間から高校時代の山崎のエピソードが語られます それはこういう内容です
「反戦デモをやりたいが表立ってはできない。それではどうしたらいいか。クラスで考えている中で、文化祭の時に仮装行列に見立てて行進し、最後に”平和の象徴”と言われる鳩のハリボテを燃やすのはどうか 鳩は鳩、平和でも何でもない。それはいい考えだ、として実行した しかし、校庭で大きな鳩のハリボテを燃やしたことが学校で大問題になった その時、山崎が担任を説得して一緒に校長に謝ってくれと頼んだ。その結果、校長は許してくれて表沙汰にならなかった もし 頼んだのがクラスで成績トップの山崎でなければ、説得力が欠けて処分の対象になっていただろう」
というものです このエピソードを聞いて、私も同じようなことを高校時代にやっていたな、と思い出しました やはり文化祭の時でした。当時は全国的に全学連や ベ平連 を中心にベトナム戦争への反戦機運が高まっている時で、遊び半分で何とか反戦の気持ちを表現できないか、と考えていました 文化祭ではクラスごとに出し物を決めることになっていましたが、話し合っている中で、仮装行列をやろうという話が持ち上がり(自分で提起したかどうか覚えていない)、各自が思い思いの仮装をして行進することになりました その時、私はここぞとばかりに、数人のクラスメイトとヘルメット、角棒、タオルで仮装しました また、組織の名前が必要だと思って、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)をもじってジャパコン(日本民族解放戦線)という組織名をでっち上げ、大きな横断幕を作り、「ベトナム戦争反対」というプラカードとともに掲げて行進しました 担任は心配そうな顔をしていましたが、暴れたり火を点けたりするわけではないので、黙認されました。その時のアルバムに収められたクラスの集合写真(モノクロ)を見ると懐かしく思い出します
また、当時私は生徒会の役員をしていましたが、生徒会長T君とともに反戦ビラを作って朝の登校時に校門近くで配布して、登校してきた顧問の教師に捕まって職員室で説教されたことを思い出しました 「あの時 君は若かった」と 今なら言われるでしょう 当時は若者にとってなぜか熱い時代でした
内ゲバということで思い出すのは、大学2年の時だったと思います 2階の教室で授業を受けている時、外でボカボカと人を殴る音が聞こえたので、授業そっちのけで外を見降ろすと、学生が一人倒れていて、警備員が駆け付けてきたところでした。あれは間違いなく中核派と革マル派の内ゲバでした
もう一つの思い出は、やはり大学2年の時だったと思います 茨城県出身のO君に「革マル派の集会があるから見に行かないか」と誘われ、興味本位で新宿の公園に行きました O君は独特の茨城弁でヘルメットに角棒姿の学生を捕まえて議論を吹っ掛けていましたが、私は怖くて ただひたすら2人の”論戦”を聞いていました O君は学校の先生になったはずですが、今頃どうしているだろうか
14人の登場人物の中に山崎博昭の大手前高校の先輩で元東大全共闘代表の山本義隆氏がいます 彼は全共闘運動を振り返って「なんであんな力になったんかなあ。あれだけの大衆的な広がりをもった時期があったんでね。あの頃の闘争について否定的な見解ばかり語られるけれど、それ以上にあの時代の運動には価値があったと思うんだ」と語っています また、現代の若者の印象について、「今、予備校(駿河台)で教えているんだが、今の若い人は笑わない 授業で冗談を言っても全く笑わない。一昔前までは、すぐに反応して笑ったものだ。子どもに聞いてみたら、『可笑しいけど、笑うのははずかしい 自分だけ笑って、他の人たちが笑わなかったら、浮いてしまう』と言っていた それだけ、若者は皆 周囲を気にかけている。現代は それほど同調圧力が強いのか、と思った」と語っています たしかに、思い当たる節があります と言っても、私の場合は単に話が面白くないだけで、通じない冗談を言っているのかもしれませんが
若者にとって熱い時代の後に、「しらけ世代(時代)」がやってきますが、一番大きなきっかけは70年の「大阪万博」だったと思います あれをきっかけに国民の関心は学生運動から離れていったと思います その流れは「楽しくなければテレビじゃない」という謳い文句を標榜した某テレビ局のように、視聴率を取るためならどんなにクダラナイことでも放送する「国民をバカにした」方向に進んでいきました
話が大幅にずれましたが、映画の中で、2人の登場人物が学生運動から身を引いた理由を語っています 共通しているのは「対立する組織があり、それぞれが自分たちが正しいと信じている中では、いずれ暴力闘争によって相手を殲滅するまで闘うことになる。それは終わりのない闘いになる」ということです 実際にそうなっていったことは 歴史が証明しています
この映画は上巻:96分、下巻:104分、合計3時間20分(途中で10分の休憩あり)の長尺ですが、まったく飽きることがありませんでした
美味しそうな唐揚げ!味がしっかり染みてそうで見てるだけでビールが飲みたくなりますね。
学生運動はわたしには教科書や資料の中の出来事なので、時代の空気や熱気はわからないのですが…toraさんの解説はとてもわかりやすくて興味深く感じました。
唐揚げの味付けは、栗原はるみ先生の旨み醤油ですが、ニンニク、ショウガの刻みと削り節を醤油に漬け込んだものを冷蔵庫で2週間漬けておいたので、しっかりとした味付けになっていて美味しかったです。
若者にとってあれほどの熱い時代はもうないのかな、と思ってしまいます。
夢中になれるのはゲームだけ、という今の子どもたちは可哀そうだと思います。今は特にコロナの関係で部活も休止です。閉塞感が漂うばかりですが、明けない夜はない、といいます。一日も早くコロナが収束することを祈るばかりです