「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という教えは、イエスさまによってなされた珠玉の教えです。この教えを受け入れ、信仰を告白し、洗礼を受けた人のことを〝クリスチャン〟あるいは〝キリスト者〟と言いますが、そのクリスチャンとかキリスト者と呼ばれている人が戦争を肯定するならば、それは似非クリスチャン、似非キリスト者と呼ばれることになりはしないかと思います。
戦争をするということは、人を殺すということですので、「殺してはならない」という旧約聖書時代からの律法をも破ることを意味しています。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という教えと、「殺してはならない」という律法は、似ているところがあります。人を愛するということは、人を殺さないということだからです。ですから、理屈の上では、戦争を肯定するようなクリスチャンやキリスト者と自称したり、そう呼ばれている人たちは、似非クリスチャン、似非キリスト者と言われてしまうのではないでしょうか。ところで、テレビで戦争を肯定するようなことを言う自称クリスチャン政治家もおられることが不思議でなりません。
人の命を奪ってしまうというのは、人として取り返しのつかない罪を犯してしまうことであり、人間にとって最大の不幸であるからこそ、このような戒めが示されているのではないかと受け止めています。
そんなことを考えていると、政治家とか、政治家に限らず、自分が安全な場所にいて、人を戦場に行かせるような議論をするとは、どういことかと思います。人を殺すということは、とんでもないことをするということで、それが命令によって人殺しを強制させられるのです。その結果、人を殺した兵士に、帰還してから人として生きることができないような心の傷を負わせるということです。どこの国でも、日本でも、戦場から帰還してきた兵士や自衛隊員が、数多く自殺をしています。自分の血を流したこともない、人を殺して苦しんだ経験もないような幼稚な政治家が、寿司を食って、エビフライを食って、酒を飲んで、派兵の決定をしようなんて許されることではありません。
日本には、憲法があります。その憲法のどこが問題なのか。憲法の議論をしっかり、じっくりと、まともにやって欲しいと思います。そうでないなら、憲法に抵触する恐れのある問題を軽々に取り扱うべきではないと思います。今、差し迫った脅威があるのですか。だから、あちこちちょっかい出したり、問題をこじらせたり、国民の生活を苦しくして考えることができないようにしているのでしょうか。
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