「スタンダード」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
Hi-STANDARD、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「スタンダード」、基準の直訳である「Standard」など、そんなところでしょうか。
取り上げたいのは、学校で使われている「スタンダード」です。
このスタンダードには、いろいろなものがあります。
「○○小スタンダード」「学力スタンダード」「いきいきワクワク100のきまり」など、表現方法は違いますが、学校の中でのきまりごとなどについてです。
先日の熊本日日新聞での連載「くまにち論壇」。今回の記事は、これまでで最も反響をいただきました。ぜひ、多くお方にお読みいただけると嬉しいです。 pic.twitter.com/eon4sLhgjf
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2018年11月20日
苫野一徳熊本大学准教授が、「最も反響をいただきました」と、この問題についてTwitterにポスティングしていますが、ここの文章の中にその中心点は書かれています。
この問題について都議会文教委員会で質問したことがあり、学校現場を取り巻くも問題として強い関心を持っています。
スタンダードは、画一的に管理する場合には有効に働く側面があるかもしれません。しかし、学校現場=子どもたちの教育の場にそれが持ち込まれることがどういうことを招くのかについての想像力を働かせる必要があります。
先の苫野准教授の文の中にも「教師も子どもも、成長のために必要なのは、ただ言われたことを言われたとおりにさせられることではなく、自分なりの問いを持ち、試行錯誤し、たっぷり失敗し、その失敗や、また小さな成功体験の積み重ねから「自ら学んでいく」経験だ」と指摘があります。
「自ら学んで行く」という最も大事なことを、スタンダードは奪うことになってはいないかという視点はとても重要です。
「これをしてはダメ」「これをやりなさい」という組織は、失敗する権利を奪い主体性を奪っていくのだと思います。同時に、先生が忙しすぎる問題とも一体不可分だと感じます。
合言葉は「学校を変えよう」──これを声に出し、学校と対立するのではなくともに子どもたちの育ちを支えるパートナーとして取り組んでいく時だと思います。
(参考:原のり子都議のブログ「どの子にも豊かな子ども期を! 」)
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