「しんぶん赤旗」の連載で、楽しみにしているものがいくつかあるのですが、その一つが「自由と安心の中で育む学びと交わり」です。
自由の森学園の菅間正道先生のコラム。
1回目、2回目と吸い込まれるように読みましたが、3回目(7/23付)も本当に学ぶことばかりです。
テーマは「『どうしたいか』こそ」。
公立中学校卒業後、自由の森学園に入った生徒が述懐する言葉に、今の社会の閉塞感や生きづらさを見るような思いがします。引用します。
「小・中学校時代は、教師が何を正解としているのかを瞬時に察知した。そこに自分を合わせていくことにどんどん長けていって、何の矛盾も感じなかった。でもこの学校ではそれが通用しなかった。何が正解なのか自分で考えなくてはいけないので大変だったけど、それがとても良かった」
「とにかく友だちからどう見られているのかが気になって仕方がなかった。ちょっとした言葉、服装、浮かないように、はみ出さないようにすごい気を使って疲れ果てた。でもここに来たら、今までのクダらない悩みは何だったんだろうと思った」
色々な葛藤の中に、自分の言葉で生徒たちが語る姿は、紛れもない本音であり実感です。菅間さんがこの生徒の言葉を引き取り、次のように書かれています。
表現される言葉はさまざまだが、垂直(親・教師)、水平(友だち・クラス)の関係において、過剰に気遣いし、演技し、自分を押し殺し、生き凌いでいる姿が見て取れる。私自身の無邪気でのどかな中・高生時代と比べても、その苛烈さに胸が痛む。
こういう視点から教師が子どもたちの現実を捉えているでしょうか。小学校時代からあらかじめ学校が決めたルール=「スタンダード」を守らせ、少しでもはみ出したら叱責するという場面も少なくありません。
「なぜ」と疑問を持ってしまうと、ついていけなくなってしまうので疑問を持たないように「こういうものだ」と思うようにしていたという話は、様々な場面で聞いてきました。
菅間さんが、垂直と水平の関係という表現に「なるほど」と膝を打ちました。
そして、「背景分析はともかく、ひとつ確かに言えることがある」と次の言葉で結ばれています。
自由と安心の中で、深呼吸をし、自分は何者か、どうしたいのか、どう生きたいのかという、まっとうな問いに向き合える時間と場を保障し、それを通じて「俺/私もまんざらではない」という自分をつくること─。それこそが中等教育の大切な使命であるということである。
本当にしびれました。
子どもたちから、3つの間(空間、時間、仲間)が失われていると言われて久しいですが、そうした中で育つ子どもたちとどう向き合っていくのか。この菅間さんの「確かに言えること」が、学校で保障され、まんざらでもないという自分をつくることができたらどれだけいいかと思いました。
また、垂直と水平の間にある、ナナメ上の存在(一歩前をゆく先輩)の存在もとっても大事だなというのが、私自身が育ってきた中で感じていることです。逆にナナメ下(ちょっとだけ後輩)との関わりから学ぶこともたくさんあります。
「なんでそう思ったの?」「どうしたいの?」という問いを大切に投げかけ、キャッチボールできるような関係性でこそ、成長できると思うのです。
この連載、今後も期待しています。
毎回この連載を楽しみにしている。今回のは多くの人に読んでほしいとポスティング。
— 池川友一🏳️🌈 #比例は共産党 (@u1_ikegawa) July 23, 2019
自由と安心の中で、深呼吸をし、自分は何者か、どうしたいのか、どう生きたいのかという、まっとうな問いに向き合える時間と場を保障し、それを通じて「俺/私もまんざらではない」という自分をつくること─。 pic.twitter.com/Kh1Wemcsmg
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