少し前に、「新型コロナでわかったこと──政治や行政のあり方が問われている」という記事をポスティングしました。
現在進行形で起こっている問題を一つひとつ突破していくことは大切なことです。同時に、故・三上満さんが「現在とは、過去と未来の闘争の場」とくり返し言っていたように、現在の問題は過去と未来がせめぎ合っていると思うのです。
つまり、現在を形づくっている過去に向き合い、現在を通じて未来を形づくっていくことが必要です。
■なかったことにはできないから、前よりよくしよう
五味太郎さんのインタビューは、おとなの都合で子どもたちがどんな状況に置かれているのかを突きつけています。(引用:五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方)
普段から感じてる不安が、ひるがえってコロナに移っているだけじゃないかな。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。
そう、私もそう思うのです。新型コロナの影響で見えてきたことが確実にあります。それは、新型コロナ以前から違和感があったり、ちょっとどうかなと思っていたりしていたものです。
こうなると、世界の全体像は誰もわからない。でも、これをなかったことにはできないんだから、乗りこえていくというより、前よりよくしましょうよ。
むしろおれ、ガキたちにはこれがチャンスだぞって言いたいな。心も日常生活も、乱れるがゆえのチャンス。
わからないからこそ、前よりよくしようということは、共感できる部分が多いなと感じます。
■学校が休校になって見えてきたこと
一斉休校は突然で横並びで、よくなかったとは思う。やっぱり日本人って、誰かが命令してくれるのを待ってるよね。その方が楽というか、やりやすいのかな。
でも、こういう時っていつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあ戻ったその当時って本当に充実してたの? 本当にコロナ前に戻りたい?と問うてみたい。戻すってことは、子どもに失礼な形の学校や社会に戻すってことだから。
この五味さんの言葉は、私を含めてすべてのおとなが問われています。友だちと遊びたい、おいしい給食が待ち遠しい、勉強や部活動をやりたいと思う子どもも少なくないと思いますが、同時に学校が休みになってよかったと思っている子どもも少なくないと思います。
義務教育が、たまたま住んでいる地域にある公立学校に行くケースが多いことについても言及されています。
私自身、都立高校の校則について調査してきました。中学校時代に不登校であったり、勉強が苦手だったり、家計が厳しかったりすると選択肢が狭くなってしまうという課題はありますが、高校は選択できるのです。
一方で、小中学校は選択したいと思っても基本的には住んでいる地域によって、行く学校が決まっているというのが現実です。公立中学校の校則(生徒心得や生活のきまりなど)を見ると、本当に差があります。隣の学校では許容範囲なのに、自分の学校では禁止されていることが山ほどあります。逆もまた然りです。
義務教育は、どこの学校に行ったとしても基本的に同じように学べることが必要でが、そこに通う子どもたちによって学び方が変わることもまた事実です。しかし、現状の学校ではスタンダード化がすすみ、目の前の子どもたちの現実から出発するのではなく、あらかじめ基準を作ってそこに当てはまるように指導していくという例がたくさんあります。
これは、学校の仕組み(システム)に課題があると思います。この学校の仕組みについて、今回はこれ以上書きませんが、少人数学級にしたり、一斉授業方式を改善したり、何より子どもの意見が反映される学校づくりが求められていると思います。
学校に行きたくないと思うのは、仕組みに問題があると私は思います。
学校に行きたくない子どもに親が行きなさいというのは、子どもが「お風呂が熱い」って言ってるのに、親が「肩までつかって100まで数えなさい」というようなもので、人類は進化してるはずなのに、いまだに根拠のない根性論が……。
熱さに意味はないけど、この熱さに耐えれば卒業証書、修了証書、そして退職金……と続いていく。で、疲れちゃって、考えるのをやめていく。考えるのって面白いはずなのに。それを繰り返してるうちに、自分が何がしたいかわからなくなっちゃってる。誰かに見てもらって点数つけてもらって休みもお金ももらう。おれは「学校化社会」って名づけたよ。
この五味さんのメッセージは、子どもたちの声におとながどう向き合うかが問われていることを示していると思います。
■子どもには礼儀正しくというのに、子どもに対しては礼儀正しくない
ーー学校が休みになり子どもと過ごす時間が増えた人が多くなりました。子どもの邪魔をしないように、大人が気をつけることって何でしょうか。
それを問う以前に、つくづくこの社会には、子どもに人権なんてものはないなと思ってる。
たとえば、子どもが絵を描いてるわきに行って「なに描いてるの?上手ね」なんて言うのは失礼なことだとおれは思う。それはその子が描いてる絵なんだから。ピカソに対してはそう言わないでしょう。いっぱい来られると子どもはめんどくさくなって、「お花、かわいいわね」と言われたりして、ウケるものを描いてしまう。大人がやりがちなミスです。ガキに「礼儀正しく」という割にはガキに礼儀正しくない。
この中身も本当にそうだなと思うと同時に、自分自身が問われているなと思います。
そして、悩むことが大事だとも話しています。
限られた材料や選択肢の中で、悩むしかない。大人も子どもも。これを機に、十分悩みましょうよ。
人生って自分の居場所を見つけることかも、って娘が言ってたけど、こればかりは子どもも大人も自分で見つけるしかない。
■子どもに相談することが、子どもへのリスペクトになる
ーー親個人ができることってないでしょうか。
一つ、知恵としては、子どもにもばんばん相談すること。
だいぶ前のことだけど、ある女性から「夫とうまくってないんだけど、子どものために別れられない」と相談を受けて、「それ、自分のためでしょ。子どもに相談した?」と聞いたら、してない、って。それで彼女が中高生の息子に相談したら、「早く言えよ~」って言われて、拍子抜けしたそうです。で、別居してそれぞれ会いに行ってもらうことにしたそうで、ずっと悩んでたのはなんだったんだろうって。
親はガキより立派でも強くもないし、むしろ弱いぐらいなんだから、それを認めて、一人の人間として相談したらいいんじゃないかな。
子どもたちのことなのに、おとながすべてを決めてそれを子どもたちに従わせる社会が幸せなはずがありません。
子どもが自分自身に関わる決定が行われるときには、意見を聞かれる権利があるというのが、子どもの権利条約の大事なポイントです。
今回の新型コロナに伴う対応も、とにかく社会的に弱い立場の人たちにしわ寄せが行くようなものになってはなりません。そうした問題は、見えない問題にされてしまうのではなく、きちんと当事者の声を受け止めて行くことが必要です。
どんな状況にある人に対しても、尊厳を持って関わること、リスペクトが重要だというのが私がこの五味さんのインタビューから学んだことです。
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