ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
後楽園球場 初体験の日
今から35年前の今日75年8月16日は私が生まれて初めて後楽園球場に
行き、ジャイアンツ戦を生観戦した日である。
前年の74年に長嶋茂雄が引退し、引退興行としてジャイアンツがNYメッツ
と地方を回り北九州市民球場での試合が第3日曜日だったため行って長嶋
の最後の雄姿を見られると思いきや雨天中止となっていた苦い思い出が
あった。
75年は小6だったので初めて筑波に住むK叔父さん宅に3週間ばかり
滞在し、 8月16日の土曜日に当時 市谷に住んでいたM叔父さんと一緒に
行く事にしていた。
市谷から後楽園球場がある水道橋まで数キロ先なのでM叔父さんは
甥っ子に ‘叔父さんの会社を見せる’と言って私を連れ出しバスで球場に
向かった。
‘前売りは買った?’と私が尋ねると‘そんなものいらないよ’と叔父さんは
言う。
そしてジャンボスタンドの当日券を購入して上がろうとしたらダフ屋がネット
裏のチケットを1万円で売りつけようとしたので当然ながら断る。
対戦相手はホエールズ。
LF 中塚 LF 高田
RF 高木 3B 富田
1B 松原 CF 柴田
2B シピン 1F 王
CF 長崎 RF 淡口
3B ボイヤー C 矢沢
C 福島 SS 河埜
SS 山下 2B 山下
P 平松 P 横山
周りには熱烈なジャイアンツファンのオッサンが多くホエールズの
オーダーが発表されるとヤジりまくっていたし特に長崎に対しては
‘ながさきぃ~長崎に帰れ、テメェなんざ江戸っ子じゃねぇ!’などという
ヤジが飛ぶ。
試合が始まると両投手が好投するが4回にジャイアンツが横山のタイム
リーなどで2点を先行。
7回にも連打で2点を追加して4-0とするが8回に中塚のHRから流れが
変わり 2点を返され、その裏に富田のタイムリーで5点目を挙げる。
9回に2点を返され1点差まで追い上げられるが高橋善正らのリリーフで
何とか逃げ切った。
W 000 000 022 4
G 000 200 21X 5
実はこの年のジャイアンツは最下位に沈んだのでジャンボスタンドで観戦
していたオッサンらはイライラが募っていたが、7回終了時点で4-0となった
時は上機嫌でビールなどをあおっていた。
ところが9回に追い上げられ出すと一気にヤジのボルテージが上がり、
逃げ切った時にはバンザイをしていた。
この頃はトランペットやメガホンによる全体応援などはなかったが自然
発生する大声援が印象的だったし、今となっては内野にまで敷かれた天然
芝がカクテル光線に美しく映えていたのが印象的だった。
帰りのバスの中でも殆どの乗客がジャイアンツが勝った話題で持ちきり
だったのは言うまでもない。
嬉しい余韻を引きずりながら帰途につきナイター観戦の醍醐味を味わった
ワケだったが、残念ながら この頃はプロ野球ニュースは始まっておらず
‘あの感激をもう1度’というわけにはいかなかったのを覚えている。
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大洋の湘南カラーのユニフォームが当時画期的でお洒落だなと子供心に感じました。そのカラフルな戦闘服に身を包んだ”ライオン丸“ シピンや名手ボイヤー、スマートエースの平松にアイドル的人気もあった山下大輔、職人・中塚など非常に個性派揃いでしたよね
私は残念ながら後楽園で観戦したことがありません。東京ドームも外を歩いただけですし。。。そこには巨人、プロ野球、都市対抗の歴史がぎっしりと詰まっているのでしょうね。
あの年はジャイアンツファンには辛い一年でした。飛車角の内の飛車が欠けて、その穴埋めが出来ず、投手陣にも堀内、高橋一三の両エースに衰えが見え始め、新浦、小林はまだまだ実力開花手前で、関本、小川らもイマイチ不振、3年目の横山忠男がフォークボールを武器にこの年だけの準エース格として活躍した年です。
ニッポン放送やプロ野球ニュースでおなじみの関根潤三さんがヘッドコーチで、選手起用に四苦八苦していたのがちょっと気の毒に見えてしまったものです。
ついこの間みたいな気がするのに、もう35年も前になるんですよね。
ちなみに私の後楽園初観戦は'72年夏、巨人V8の年で堀内が26勝・沢村賞受賞と投手タイトルを総ナメにした年でした。最多勝争い2位が江夏の25勝という、恐ろしくハイレベルな最多勝争いが行われた年です。
ライトオーバーのヒットで外野席からモノ投げて
守備妨害してたのみて嫌な気分になったのは覚えている 中畑いた頃の話 球場でまず確かめたのは
フォスターさんが森永の看板凹ませた箇所 確認したんだ
あの頃のホエールズは個性派揃いでしたから、見ていても楽しかったですね。
ある意味 人工芝になる前の最後の年に観戦できてラッキーだったと思ってますよ。
やはり後楽園球場には味がありましたね。
>吉法師様
堀内が20勝したのは72年だけなのですよね。
あの頃は先発翌日にリリーフまでやってましたから
20勝を越えるのは不思議ではないと思いますし、当時の高校野球が極端な投高打低だったというのも影響していたのでしょう。
今にして思えば75年のジャイアンツは典型的な世代交代に失敗した例ですが、当時は信じられない事でしたよね。
>屯田兵様
シンシナティのフォスターの打球は凄まじかったですよね。
あの頃のMLBプレイヤーは別世界の人間という感じでしたよ。
だから後楽園のような箱庭での試合は今見るともどかしいでしょうね。
しかし最下位の屈辱を胸に翌年は見事に長嶋野球が花開きましたね。優勝を決めたのは前年と全く逆で広島市民球場。若きエースにのしあがった小林繁氏(昨年亡くなられましたが‥)が胴上げ投手となったシーンは34年経った今も記憶に鮮明です
こーじさん、田川が燃えた日の感想もこちらに書かせてもらいますね。以前にも話したと思いますが、田川×秋田商の試合を私はたまたま甲子園で観戦しました。仰る通り田川高校は春夏通じての初陣でしたから、高山揺する秋田商相手では少し荷が重いだろう。。。というのが正直なところでした。しかし激戦区・福岡を勝ち抜いた抜け目のない野球さすがにレベルが高く、田川はあと一歩で初出場初勝利を掴むところでしたからね。村田投手のケレン味のない投球は高山に決して劣らない素晴らしいものでした。同校の復活やこーじさんの西田川高校の初出場も大いに期待しております
平仲の世界戦はちょっと記憶にありません。書かれている内容ですとスリリングな攻防の連続で さぞ世界の強豪のド迫力を堪能されたのでしょう。羨ましいですね‥☆
今にして思うと75年は温暖なベロビーチでキャンプをして帰国後に肌寒い北関東シリーズを戦っていたのがケガ人続出の原因だったようですね。
だから以後 長嶋監督はグァムをはじめとした暑い場所でのキャンプを廃止したという事です。
76年に張本が加入した途端に他のメンバーも息を吹き返したのを見ると、いかにONへの依存度が高かったかが分かります。
平仲の世界戦は九州ローカルでしかOAされませんでしたので、まず他の地域の方は見る機会はなかったでしょうね。
一応リングジャパンからビデオは売り出されてましたけどね。