74年夏の甲子園は銚子商が優勝する流れだった

 今から40年前の夏の甲子園は銚子商がエース・土屋正勝の好投と
4番・篠塚利夫の巧打などで悲願の初優勝を飾った。

 以前も記したように私が最初に興味を持って見た大会なので強烈な
記憶を残した大会となったのだが、銚子商の戦績も初戦でPL学園に
5-1で勝つと3回戦で中京商を5-0、ベスト8では平安を6-0、ベ
スト4でも前橋工に6-0で決勝が防府商に7-0と文字通り圧勝で
の優勝だった。

 PL戦の5回に2アウト満塁から押し出しで2-1とされたのが
唯一の失点だし、決勝以外は2回までに先取点を挙げているので
決勝戦のみ5回まで0-0という展開だったのだから凄い。

 ただ当時の記事や記録などを見ると改めて銚子商が優勝する流れ
だったように見えてしまう。

 大会前の予想では銚子商・土浦日大・東海大相模・静岡商・平安に
高知あたりが優勝候補と言われていたようだが、選抜優勝の報徳
学園は予選の決勝で東洋大姫路に敗れているだけでなく準優勝の
池田やベスト4の和歌山工も出場してない。

 中でも銚子商にとっての‘天敵’が報徳学園で73年春は初戦で
0-16と惨敗しているし、74春もベスト8で住谷と東のリレーの
前に2-1と競り負けている。

 まず初戦のPLは早大からライオンズで活躍した金森栄治がいた
ものの前評判は決してよくはなく、5-1というスコアも順当では
ある。

 3回戦で対戦した中京商は初戦で高知に2-1で逃げ切っている
のだが、高知は春のベスト8で特に2回戦では前年の優勝校で関東
三羽烏といわれた永川を擁する横浜に延長でサヨナラ勝ちしている
し翌年春には決勝で原や津末を擁した東海大相模に勝って優勝して
いる。

 そういう意味では高知の方が中京商よりも銚子商に勝つ可能性は
高かったのではないか。

 ベスト8の相手は春ベスト4で優勝候補の一角だった平安相手に
HR2本を含む10安打で6-0と快勝したのだが平安は1回戦から
登場し、2回戦で上尾相手に13回を投げた翌日に3回戦で東洋大
姫路に4-3で勝っている。

 東洋大姫路は報徳同様 千葉キラー的なキャラで2年前も初戦で
掛布雅之を擁する習志野が2点を先行したその裏に満塁HRで逆転
して勝っているのを考慮すれば銚子商にとって平安より東洋大姫路
の方が厳しかったのかもしれない。

 つまり千葉県勢に得意意識を持っている東洋大姫路が2試合目で
平安に敗れたのが銚子商が優勝する流れを象徴している。

 更にベスト4ではベスト8で静岡商に1-0で勝った前橋工と対戦
するのだが前橋工は初戦の1回に先頭打者HRで得点したのが甲子園
初得点というのに対し、静岡商は後に明治で鹿取と並ぶ2枚エースだ
った高橋を擁していたので銚子商にとっては静岡商の方が嫌な相手で
はないかと思う。

 そして決勝の相手は防府商になるのだが決勝を担当した西田善夫
アナは、ベスト4の組み合わせが決まった時に東海大相模と銚子商が
別パートに入ったので決勝は銚子商と東海大相模の顔合わせを予想
していたらしい。

 東海大相模は先述したように前年春を制した横浜の永川を打ち込ん
で甲子園に乗り込み初戦では工藤を擁する優勝候補の土浦日大に延長
16回の末にサヨナラ勝ちするなど、関東三羽烏の2人まで攻略して
いたので大方の予想は銚子商の決勝の相手は東海大相模というのは順
当だろう。

 ところが東海大相模はベスト8で鹿児島実と球史に残る死闘の末に
延長15回で4-5で敗れ、勝った鹿児島実もエースの定岡正二が翌日
ホーム突入の際に手首を傷めて降板しただけでなくサヨナラ負けした
ので決勝の相手は防府商となったのだ。

 エースの土屋正勝が在学中だった73年から74年が銚子商の黄金時代
だったものの73夏&74春は共にベスト8だった事から74夏はラストチャ
ンスだったわけで、こういった流れは頑張ってきた銚子商に対する
野球の神様からのプレゼントだったのかもしれない。

コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
強い銚子商復活を願ってます。85年、95年、05年出場なので来年は当たり年(^ー^)ノ (なにわのヒバゴン)
2014-09-17 03:11:19
金属バット元年ということを差し引いても74年の銚子商‘黒潮打線’はスコアからもその強力ぶりが伝わってきます。翌年打撃が振るって千葉連覇を果たした習志野もすべては宿敵に刺激を受けて(打ち勝たないと倒せない)強打に磨きを掛けたことは当時の状況からも窺い知れますね。仰る通り嫌な兵庫勢や強力打線の高知、エース高橋に1年コンビの久保寺&大石のいる静岡商、さらに関東では銚子商と同格(以上?)の陣容を誇る東海大相模との対戦がなかったことから銚子商には随分と追い風になったことは一理あるでしょう。65年夏は木樽を擁して準優勝を飾ったものの、2年後‘後発’の習志野に県勢初優勝を先にさらわれる屈辱。以後は72年春の4強をステップにして翌春からの4季連続の黄金期を迎えていよいよエンジン全開。斎藤監督も経験豊富なメンバーを擁して甲子園の戦い方を熟知。この千載一遇のチャンスを逃せばいつ優勝するの?今でしょ!と土屋のラストサマーに監督人生の集大成(まだ若かったでしょうけど)を賭けて乗り込んだことは想像に難くないでしょうね。そうなんですよ平安は選抜制覇後の今春近畿大会でも報徳に敗れているように、時代を経た現代でさえあのグリーンのアンダーシャツが大の天敵!なのでまだ全国区になりきっていなかった東洋相手なら‘顔’で退けられるイメージで戦えたことは実にラッキーな状況。海水浴客で満員の電車内にて疲労困憊。報徳が兵庫予選で東洋に敗れた時点で銚子商全国制覇は予言されていたと言えるかも知れませんね。悲願達成以後も76年春は習志野が、77年夏は千葉商が、80年春は八千代松蔭が、86年夏は拓大紅陵が兵庫勢に屈するなど県のレベルからしても(神奈川×奈良みたいに)一方的になることは考えにくいほどの相性の悪さは払拭されませんでしたね。最近は('_'?)00夏の準決勝で東海大浦安が育英を倒した一戦がありましたが、両県ともに当時ほど上位進出が少ないゆえにオールドファンとしてはやや淋しさを感じるのは確かです☆
 
 
 
翌年私が見始めて以降はまだ10勝位しか挙げていない銚子商。大漁旗が懐かしいですね☆  (なにわのヒバゴン)
2014-09-17 06:04:35
報徳が平安キラーと書きましたが、仰られているのは銚子商の天敵が報徳ということですね。なので74年夏は銚子商、平安にとっても見通し明るい大会だったはずかと。。。あの時代の16点は今なら25~30点くらいでしょうから、もはやラグビーですね。報徳はその2年前には一転して東邦に初回11点を献上して大敗しましたから逆転伝説以外にも話題が尽きないチーム。89年春にも東邦に返り討ちに遭いましたから、相性の悪さ、悪いイメージは年月を経ても払拭できないものなのでしょうかね‥☆
 
 
 
まさしく集大成でした (こーじ)
2014-09-17 22:28:01
>なにわのヒバゴン様
 銚子商の歴史を紐解けば65年夏に三池工に決勝で敗れて準優勝だった以外でもベスト8の常連でしたからね。

 土屋がエース格になった73年春からの4季連続では相当
自信を持っていたでしょうが、いきなり報徳に0-16で
敗れてますけど銚子商史上初の初戦敗退だったので地元の風当たりも強く悲惨だったようですね。

 優勝して帰郷して10日後に監督は胃潰瘍から吐血して
入院するハメになり、翌75年は習志野の年になったおかげで篠塚は最上級生の年に甲子園に出れずじまい。

 76年夏は決勝で監督の息子のサヨナラHRで甲子園出場し初戦で高松商相手に延長の末競り勝って、東海大一にも完勝したものの桜美林相手にまさかの敗退でした。

 そして77年春に初戦で大鉄相手に尾上の逆転3ランなどで逆転勝ちしたのを最後に85年夏まで甲子園から遠ざかるわけですが、74年当時に銚子商がそこまで弱体化するとは思いもしませんでした。
 
 
 
ヤクルト小川監督がもう57才(第57回優勝投手)。我々も年を取るはずです☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-18 22:06:34
そうですよね銚子商。。。全国制覇して以降はなぜかトーンダウン。77年春を最後に次の甲子園勝利は沢井らで準優勝した95年の春。実に18年もの歳月を要したわけです。70年代の常勝時代を思うと信じられないくらいの長期低迷でしたね。習志野にしても80年代は夏に二度出場したのみで90年代は甲子園ゼロ。2強時代は過ぎ拓大紅陵、東海大浦安、木更津総合、千葉経大付らの実力派私学が台頭。戦国時代へと突入していきましたね。平成以降で夏準優勝は2度あったものの75年の習志野を最後に千葉県勢は優勝から遠ざかっています。数少ない近年の習志野の甲子園ですが、01年夏はフォークボールを決め球に尽誠&明徳を下し、3年前は87年以来の8強入り。オールドファンの懐古主義?かも知れませんが、時代を経ても千葉の顔は全国を制した習志野、銚子商に落ち着いてしまいますね。千葉商も松本の東洋に完封されて以来長くご無沙汰。復活は何時になるのでしょうか‥☆ 
 
 
 
一気に群雄割拠はいいけれど (こーじ)
2014-09-19 00:05:30
>なにわのヒバゴン様
 70年代後半も千葉商の後に我孫子や市銚子、80年代に入ると銚子西や印旛なども出場してましたけど、やはり
拓大紅陵が84年に登場してから86・88・92年とピークを迎えましたね。

 90年代半ばからは市船橋も登場しましたし。

 ちなみに沢井で選抜準優勝した銚子商を見ると牛島-香川の浪商が一代限りで復活したのと被ってしまいます。
 
 やはり銚子名物の大漁旗を高野連が規制してからダメになったとも思いたくなりますよ。
 
 
 
75年夏にも見たかった習志野×豊見城。赤嶺賢勇元気だと嬉しいですね☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-19 02:27:15
なるほど浪商と銚子商のピンポイントの復活劇。言われてみれば酷似してますね。79年春夏のあとは02年春に1度きり出場で1勝のみの浪商。95年春夏のあと05年夏に1度きりの同じく銚子商。復活を遂げるべく3年計画で選手を鍛え上げ、どうにか最低限目的は果たせたのかも知れませんね。夏の大体大浪商が見たい!。。。。これも4年前大阪決勝で履正が空気を読まず勝ってしまうんですよ(笑)  拓大紅陵は力強くも脆いイメージ。86年春の新湊戦などその最たる例でしょうね。4点リードするもエース木村はマウンドでアップアップ状態。新湊の大応援団に呑まれ押し出しまで献上しましたからね。享栄柴垣監督(昨年復帰!)は初戦に決まった新湊の練習視察は10分弱で切り上げ次戦濃厚な拓大紅陵の練習会場へ。。。そりゃいくら実力が違うとはいえ新湊だって怒り燃えますよね。伊野商渡辺が抽選会場で‘よろしくね~’と東海大浦安ナインにおちょくられムカムカ~ッと腹を立てたのと同様に。。。その春の浦安も東の横綱格でしたが。。。主砲の佐久間が完璧に封じ込まれたことが響き、先制アーチで気を良くした渡辺が快調な滑り出し。ついには清原をキリキリ舞いさせ気がつけば頂点まで駆け上がりましたからね。印旛は春夏で3度の出場以上にインパクトを残した忘れ難きチーム(校歌歌えますよ~)。ヤクルト土橋や豪腕菊池、共に阪神入りした佐藤・月山のバッテリー、阪急でいきなりプロ初&2打席アーチを放った村上信一、83年夏の左腕古瀬。。。81年夏は銚子西でなく印旛が出て欲しかった!82年夏上尾でなく熊谷、箕島でなく南部。97年夏上宮でなく履正社が出たような脱落感があったのは確かです。佐賀商・千葉商・印旛・柏陵の4校いずれも公立校を甲子園に導いた蒲原監督は改めて凄いですね。市船橋は93年夏、元中日の左腕小笠原を擁した4強がピーク。高校サッカーでは超名門のイチフナも野球部は帝京のように‘サッカー部に追い付け追い越せ’とは中々いかないようで。。。88年春初出場の1回戦エラーが祟って惨敗した倉吉東戦。開幕日でしたが甲子園で観戦しました。熊本工村上?から放った高知商岡の右越本塁打も技ありの一打でしたが、試合終了と同時に酔っぱらい?の観客がグランドへ乱入。いきなりバタッとダイビング状態で倒れ込み、校歌斉唱の邪魔をしたシーンも今ふと思い出しました☆
 
 
 
千葉県勢の相性は (こーじ)
2014-09-19 21:02:05
>なにわのヒバゴン様
 拓大紅陵は88年も初戦で松山商に圧勝しながら3回戦では浜松商に競り負けてますしね。

 92年など池田相手に9回に立川の逆転2ランで勝ち尽誠学園にも勝つなど四国勢には強いのですが、福岡県代表には65三池工&92西短といずれも決勝で敗れているように相性が悪いですね。

 東海大浦安も初出場の時には津久見に、85年春は伊野商に完敗するなど意外に勝負弱く00年夏の準優勝のイメージが意外に沸きません。

 市船橋は文徳相手の大逆転が印象に残るのですが、
サッカーほど強くはなれませんでしたね。
 
 
 
小枝監督の解説も落ち着いていて聞きやすいです☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-20 21:23:15
拓大紅陵は初出場の84年春に智弁学園、法政二に大勝したことで同世代としてもインパクトが強かったですね。古橋投手だったか担ぐようなフォームから制球よく決まるスライダー?で打者を翻弄。さすがにPLには集中打を浴びましたが期待を抱かせる聖地デビューでした。ただ84年夏と優勝候補だった86年春夏は期待はずれに終わりましたね。なのでさして前評判が高くなかった92年夏に準優勝するとはやや予想外でした。こーじさん、森尾の西短は予選の段階から強い評判がありましたか?打線はそれほど強力ではなかった印象ですが、彼を中心に完璧なディフェンスが全国を制した要因ということになるのでしょうか。野茂を指導した浜崎監督の采配も冴え渡ってましたね。銚子商は大鉄やPLに連勝するなど強かなイメージがある半面、三池工や観音寺中央という当時としては格下チーム(95年夏の旭川実も)に決勝で完封負けするなど不思議な伝統もありますね。85年夏は予選の打率が4割台ということもあり東の横綱格で打倒PLの一番手とも見られていたのに。。。仮に初戦で宇部商を破って決勝でまで進んでいたとなればPLキラーぶりを発揮したかもですね。何せまだ斎藤監督が指揮を取っていましたから。あと千葉では78(実にプロに4人進んだのだとか)、81年夏出場の我孫子も派手さはないが攻守にまとまった好チーム。78年は石嶺のサヨナラ犠牲フライで惜敗したとはいえ初陣であっても強い千葉代表の片鱗は十分窺わせました。安房の海をイメージ?したブルーのユニフォーム久しぶりに見たいですよね☆
 
 
 
訂正です<(_ _*)> (なにわのヒバゴン)
2014-09-20 22:48:56
我孫子2度目の甲子園は91年夏でしたね。たまたま職場に千葉県出身者がいまして二回戦?で我孫子は樋渡の市川と対戦。市川を千葉だと思い込んでいた彼は‘夏なのに何で千葉から2校出てるの?’と不思議そうでした。ややこしい校名といえば富山の福岡高校やラグビーの大津高校(山口)、軟式野球だったか九州に四日市高校など時々ありますよね☆
 
 
 
92西短は (こーじ)
2014-09-21 11:21:27
>なにわのヒバゴン様
 92年の西短は森尾の評価は高かったですが、それ以外は前年夏ベスト8でエースの田島が残っていた柳川や選抜出場の福岡工大に常盤あたりが有力でベスト4で柳川に3-0、決勝で福工大付に4-1で勝って出場を決めました。

 森尾は絶妙のコントロールでキャッチャーのサイン通りに投げると打球が野手の正面をつくフォーメーションを敷いての試合ぶりでしたからランナーなしでセンター前に抜ける打球だったはずがショートやセカンドが2塁ベース後に守っていたり、1塁にランナーがいる場合は
塁間が空くはずなのにそこにセカンドやショートがいるという感じですね。

 それでも10年後に判明したのは森尾は予選突破の時点で肘を痛めており3回戦以降は4連投で痛み止め注射を打っての登板でして、最終回では麻酔が切れて痛みに耐えながらの投球だったとの事。

 その話をしたのが当時コーチをしていた筑陽学園の監督で‘森尾は甲子園の優勝と引き換えに上での活躍する機会を失ったが、甲子園で優勝するにはそれぐらいの覚悟が必要’と03夏に初出場時語ってまして、それ以降ここが甲子園にもかすりもしなくなりました。

 ちなみに浜崎監督が西短の後率いた06延岡学園はエースが肘を故障し、それをおして投げてましたから浜崎さんが指導した投手は肘を壊しやすいのかと思いました。

 余談ながら93年に西短はベスト8で小倉相手に土壇場で7-7と追い付き、なおも1アウト満塁でカウント3-1から
スクイズを敢行してキャッチャーがウエストしたので見逃せば押し出しサヨナラだったのに打者が飛び付いてフライを上げ併殺でサヨナラを逃し延長で勝ち越されて破れました。

 社会人出身ゆえ社会人なら見逃すのでしょうが、高校生は冷静さを欠くというのを忘れていたという事になります。
 
 
 
森尾投手、1回戦からの登場だとキツかったかも知れませんね☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-21 20:37:25
そうでしたか。やはり精密機械のような制球力を持つエース森尾はナインからも全幅の信頼を得てたんですね。ただ故障を抱えながら甲子園で5試合を完投ですから怪我の光明(字合ってますか?)と言えたのかも知れません。投げる球種やコースに備えて野手が守備陣形を敷いているというので思い出すのが昨夏の箕島です。箕島の野手が投球ごとに微妙に動くのを日川の打者に(投げる)コースを読まれている。よってホームランを相次いで打たれてるのではないか?と解説の星稜山下総監督が話されてました。森尾のような完璧な制球力があってこそ有効なシフト取りといえるのでしょうね。  その西短優勝の翌年小倉高校が見せたパイオニアの意地見事ですね。福岡第一が準優勝の翌年相手を舐めて敗れたように、偉大なチームの直後は思わぬ落とし穴が待ち受けていることも少なくありません。94年夏の兵庫大会は組合せの悪戯かいきなり前年全国Vの育英×東洋大姫路が激突し、7回だったかコールドで東洋が大勝。西短のスクイズ失敗と全く関係のない話で申し訳ありません(笑)浜崎監督に限らず社会人野球に長く携わったあと高校野球の指導というのは当初はそのギャップに戸惑うそうですね。享栄の柴垣監督もなぜバントや右打ちで走者を進められないのかと苦悩した頃に藤王や平田という逸材が入学。中京や東邦とて意外と当たり前と思っている事が出来ていなかったことで気後れすることなく白いストッキングを黒に変えるなど‘意識改革’をまず図り名門再建を果たせたそうです。時代を経ても体は大人、しかし心はまだハイティーン(死語ですね)それが高校球児なんでしょうね☆
 
 
 
社会人と高校生の違いは (こーじ)
2014-09-22 00:03:10
>なにわのヒバゴン様
 93夏の西短がスクイズに失敗したパターンはその年の
選抜でも横浜が上宮戦で同じく満塁3ボールでスクイズのサインを出し、外されたボールに飛び付いてキャッチャーフライを上げて併殺というプレーがありました。

 社会人なら冷静に見送って押し出しでしょうが、高校生ではそうはいかないようですね。

 西短はその後も同じような守備体型を取ってますが、
森尾ほどコントロールがよくないので度々失敗してますから それが04年と10年の出場2度のみという事になってますね。

 94年の東洋大姫路もベスト8にすら残ってないですから
初戦の育英戦でエネルギーを使い果たしたのか?

 福岡第一は88年が各変で翌89年は古里が残ったとはいえ、目利きの人達で優勝候補に挙げる者はいませんでしたよ。
 
 
 
素晴らしい記憶力とイン&アウトプット収容量。報知高校野球かホームランにこーじさんを推薦致します(≡^∇^≡)☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-22 03:55:07
外されたボールをスクイズって難しいんですね。咄嗟の判断で見送れずバットを差し出してしまうと川相や宮本慎也クラスでないと百発百中成功などあり得ないでしょう。天理が76年夏の秋田商戦で失敗したシーンを写真で見た記憶ありますし、三沢も例の松山商戦でウエストされ飛び出した三走がタッチアウト。しかし79年夏決勝での箕島榎本のサーカススクイズはお見事でしたね。星稜戦を制したあとはもう負けない、負けるはずがないと甲子園全体が箕島春夏連覇へ後押ししたような空気が漂ってました。東洋大姫路は梅谷氏のあとを受けた井上監督が今一つ(監督業以外も。。。)で88年春に一度出場したきりでライバル報徳と並んで長期低迷の真っ只中でした。この頃は育英、姫路工、神戸弘陵、神港学園、滝川二、村野工あたりに勢いがあった印象ですね。育英は93年のあとの00年も4強に進出。戦前にも準優勝を記録するなど出場6度ながら夏に強く、ある意味報徳や東洋よりも出れば怖い存在かも。ただ戎を擁した90年が最も評判が高かっただけに中川の秋田経法大付戦は戎の肩痛が惜しまれましたね(観戦しました)。西短×桜井戦もちらっと見たような飯を食いにいったような。。。山陽×葛生は9回裏二死無走者?から山陽の大逆転劇で後の日本文理を想像させる素晴らしい粘りが圧巻でした。平成以降広島勢の4強入りは同校と07年の広陵のみ?とならば何とも寂しい現状です。西短はやはり森尾や青柳時代のきめ細かさ、勝負強さが今一つ影を潜めていたような。福岡工大城東は思うほどブレイクできませんでしたし、東福岡もラグビー&サッカーのようなオーラが感じられません。村田や吉村がまだまだ存在感を見せているだけに後輩達にも奮起を期待したいですね。自由ケ丘は一二三の相模を倒した選抜が思い出されますが夏も一度経験したことで大きな実績を築いていくか否か。。。ニュー九国の動向など福岡の高校野球来年も楽しみですね☆
 
 
 
自由ヶ丘は (こーじ)
2014-09-22 23:51:31
>なにわのヒバゴン様
 
 自由ヶ丘は理事長が悪名高い福原学園理事ですから今ひとつ優秀な監督が定着せず、相模に勝った時の監督は元柳川監督の末次秀樹でしたが翌年に辞任して赴任当時
10人しか部員がいなかった旧・九州工の監督に就任し話題になりました。

 ここの理事長は監督に自分直通の携帯電話を持たせ、
負けると30分以上説教を受けるのが有名らしく末次氏の
辞任もそれが原因のようでして昨年のメンバーが末次氏を慕って入部した最後のメンバーでしたから これからは下り坂でしょう。

 東福岡は監督が上尾に逆転サヨナラで小倉南が敗れた時の主将でして、才能集団なのにかつての北九州地区の1点に拘る逆噴射采配でガタガタにしてますから彼が監督の間は全く期待できません。

 90年の8月13日は戎を擁して優勝を狙えた育英が、まだ
甲子園スターのオーラを醸し出していた中川の秋田経法付にサヨナラ負けからスタートし第3試合では山陽が2アウトランナーなしからの逆転サヨナラで勝つと第4試合も
星林が中標津相手に4-1から追い付かれたもののサヨナラ勝ちして84年に箕島が取手二に逆転負けして以来の和歌山県勢の連敗を止めた素晴らしい試合揃いでしたね。

 もっとも第2試合の西短は桜井相手に1回表のみ0で残りは1点づつ並べるスミ0で完封勝ちしてましたから、こういうスコアも珍しいですね。
 
 
 
西短は90年のほうが九州っぽくてインパクトも強いです☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-23 05:15:19
東福岡は葛谷監督ですか。確かに北九州と南部(柳川など?)のイメージは違いますね。今の高校野球はチャンスで確実に送る(時には良いが)よりもイケイケで強攻させた方が守る側も計算が立たず絶対嫌なはずですから、凝り固まったセオリーなど捨て去るべきでしょう。今夏の三重や敦賀気比などは伸び伸び打たせて勝ち進んだ印象が強いですね。自由ケ丘はユニフォームからして学校の宣伝ヨロシクみたいな経営者のカラーが見え見え。あのユニを着て野球をやりたいとも思いません(笑)ドカベン香川氏や定岡智秋氏の息子らが出場した福岡工大城東も泣かず飛ばずの印象。04年春の社戦や06年夏の帝京戦は敗れたとはいえインパクトありましたけどね。阪神柴田の当時の印象はあまり残ってないです。 そうなんですよね。和歌山が箕島以降春も含めて長いトンネルから脱出できず私はマジで木内監督を恨みましたよ(笑)ニューカマーの頃の智弁和歌山は全くオーラなどなく、接戦の展開にこそなるが終わってみるとロースコアで早々と去っていくパターン。何度目かの甲子園練習時にある観客が‘また負けに来たんか~’と発しなければ高嶋監督も最多勝を塗り替えるほど勝負の鬼にならなかった気がします。高嶋氏は‘和歌山では甲子園に出れば目標達成みたいな感覚が私の中にあった。だからあの一言がまた奈良(山口ら)時代のような闘志を呼び起こさせてくれたんですよ’。この観客のおじさんが平成の高校野球の流れを作ったとも言えますよね。同校初出場の85年春駒大岩見沢戦を観戦したのですが、ヒグマ打線は火を吹かぬとも3対1で快勝。温暖な和歌山代表がまだ雪も残ってるであろう北海道チームにあっさり負けるという寂しさを目の当たりにしましたが、23年後の夏坂口が1イニング2ホーマーするなどド派手に智弁がリベンジ。岩見沢はまだ佐々木監督だったか記憶が定かではありませんが、高嶋監督はきっとほろ苦い春の日を思い出されたでしょうね。中標津はメガネの左腕武田が懐かしい。酪農の町から初出場。ナイターの中での大熱戦、文字通り和歌山勢生みの苦しみのようなサヨナラ勝利で星林に凱歌。この夏は島根の津和野(トルネードのエース)や我が大阪は中村ノリの渋谷、2年イチローの名電(夏初戦負けのスタート)、1年ゴジラ松井など私的にも思い出深いですね。鹿実の内之倉も当時は破格の大物ぶりでしたが。。。野球に限らずプロの壁は果てしなく厚く厳しいということなのでしょうね☆
 
 
 
不思議なのは (こーじ)
2014-09-23 23:29:43
>なにわのヒバゴン様
 東福岡は先述したように監督の采配がチームの足を引っ張る形でしたけど、福工大城東は監督が74東海大相模の主将だった杉山氏でドカベンや定岡の息子達が入部するようにホークス関係者の息子が入部するケースが多いのですよ。

 にも拘わらず04選抜で活躍したぐらいというのが謎なのですよ。

 今頃は福岡の盟主になっていてもおかしくないのですけどね。

 そうそう自由ヶ丘は98年選抜終了後に帰郷した元PLの
中村氏を監督に迎えようとした旧・直方学園(島田誠の母校)に横槍を入れ醜い争いを繰り広げたおかげで嫌気が差した中村氏は恐れをなして名古屋商科大の監督になったようです。

 少子化により生徒の減少を高校野球で活躍する事により名を上げようと校名も直方学園から直方東に変更していたのですが、残念ながら生徒が集まらずに数年後に廃校となってしまいました。
 
 それぐらい自由ヶ丘の理事長は えげつないので、末次監督の退任などはさもありなんと思ってましたから。
 
 
 
ベンチでボールを片手にor腕組みする中村順司監督懐かしい☆ (なにわのヒバゴン)
2014-09-25 06:59:44
そうだったのですか。中村氏が故郷で高校野球監督を続行する予定だったとはつゆ知らずでした。PLと違い土台の出来上がってないチームをどう育て上げるのか高校野球ファンならずとも注目したことでしょうね。直方といえば魁皇(一発変換!改めて偉大です)。男子高校バレーが全国制覇した記憶もあるスポーツが盛んな町のイメージ。島田誠は81年リーグ優勝時の核弾頭。高代との小兵1、2番コンビ。柏原、ソレイタ、クルーズ、古屋、大宮らの厳ついメンバーを大沢親分が率い火消し役には江夏。。。今の日ハムよりもキャラが濃く、全く違うチームのイメージですね。島田誠は現在は地元のホークスでコーチでしたっけ 末次監督はどうしても選手時代の76年8打席(数?)連続安打の印象が強いですね。監督としては泣かず飛ばずといったところでしょうか。コンスタントに甲子園に出場できればチームにも伝統が根付き、勝つための采配・コツも掴めるような気がするのですが。2校を甲子園に導く有能な方ですし、雑音のない環境で指導させてあげたいですよね。城東の杉山監督も九州から相模への越境組でしょうか?豪快な攻撃野球はやはり原貢氏によるところが大きいのでしょうね。関東のスマートさと九州の野性味をミックスさせたのが原野球だったのかも知れません。上田卓三投手は阪神、南海の晩年少し記憶しているくらいですが軟投派のイメージでしたね。甲子園勝率十割は64年春優勝の徳島海南(ジャンボ尾崎)と翌夏の三池工のみ。この2校とも対戦経験があるのは報徳だけというのも興味深いところですね。逆転で名を馳せた報徳が初優勝するまでは悪戦苦闘の日々。64年春、65年夏、66年夏、67年春。。。4年連続で優勝校に破れています☆
 
 
 
末次監督になってから (こーじ)
2014-09-25 23:36:59
>なにわのヒバゴン様
 実は末次氏は名監督なのですよ。

 柳川といえば江川にプッシュ打法で挑んだ73年から91年まで(80年~86年を除く)福田精一郎が率いていましたけど最後の91年にベスト8入りした以外は2勝のみ。

 一方で末次氏が監督になってからは95年ベスト16や
00年の春夏ベスト8など初戦敗退は03春と05夏のみですから福岡では名監督と言われてますよ。

 00年夏のチームも末次氏の作ったチームで香月の指の血豆が破れてなければ智弁和歌山にも勝てていたと今でも言われてます。

 柳川を離れたのも暴力事件の責任を取らされた形で、
だからこそ自由ヶ丘に移ると有望選手が集まり10年春に
初出場し東海大相模に逆転勝ちするわけですね。

 だから昨年のメンバーが末次監督を慕って入学した最後の世代ですから、残念ながら自由ヶ丘は弱体化するだろうといわれてます。

 
 
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