ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
74年夏の甲子園は銚子商が優勝する流れだった
今から40年前の夏の甲子園は銚子商がエース・土屋正勝の好投と
4番・篠塚利夫の巧打などで悲願の初優勝を飾った。
以前も記したように私が最初に興味を持って見た大会なので強烈な
記憶を残した大会となったのだが、銚子商の戦績も初戦でPL学園に
5-1で勝つと3回戦で中京商を5-0、ベスト8では平安を6-0、ベ
スト4でも前橋工に6-0で決勝が防府商に7-0と文字通り圧勝で
の優勝だった。
PL戦の5回に2アウト満塁から押し出しで2-1とされたのが
唯一の失点だし、決勝以外は2回までに先取点を挙げているので
決勝戦のみ5回まで0-0という展開だったのだから凄い。
ただ当時の記事や記録などを見ると改めて銚子商が優勝する流れ
だったように見えてしまう。
大会前の予想では銚子商・土浦日大・東海大相模・静岡商・平安に
高知あたりが優勝候補と言われていたようだが、選抜優勝の報徳
学園は予選の決勝で東洋大姫路に敗れているだけでなく準優勝の
池田やベスト4の和歌山工も出場してない。
中でも銚子商にとっての‘天敵’が報徳学園で73年春は初戦で
0-16と惨敗しているし、74春もベスト8で住谷と東のリレーの
前に2-1と競り負けている。
まず初戦のPLは早大からライオンズで活躍した金森栄治がいた
ものの前評判は決してよくはなく、5-1というスコアも順当では
ある。
3回戦で対戦した中京商は初戦で高知に2-1で逃げ切っている
のだが、高知は春のベスト8で特に2回戦では前年の優勝校で関東
三羽烏といわれた永川を擁する横浜に延長でサヨナラ勝ちしている
し翌年春には決勝で原や津末を擁した東海大相模に勝って優勝して
いる。
そういう意味では高知の方が中京商よりも銚子商に勝つ可能性は
高かったのではないか。
ベスト8の相手は春ベスト4で優勝候補の一角だった平安相手に
HR2本を含む10安打で6-0と快勝したのだが平安は1回戦から
登場し、2回戦で上尾相手に13回を投げた翌日に3回戦で東洋大
姫路に4-3で勝っている。
東洋大姫路は報徳同様 千葉キラー的なキャラで2年前も初戦で
掛布雅之を擁する習志野が2点を先行したその裏に満塁HRで逆転
して勝っているのを考慮すれば銚子商にとって平安より東洋大姫路
の方が厳しかったのかもしれない。
つまり千葉県勢に得意意識を持っている東洋大姫路が2試合目で
平安に敗れたのが銚子商が優勝する流れを象徴している。
更にベスト4ではベスト8で静岡商に1-0で勝った前橋工と対戦
するのだが前橋工は初戦の1回に先頭打者HRで得点したのが甲子園
初得点というのに対し、静岡商は後に明治で鹿取と並ぶ2枚エースだ
った高橋を擁していたので銚子商にとっては静岡商の方が嫌な相手で
はないかと思う。
そして決勝の相手は防府商になるのだが決勝を担当した西田善夫
アナは、ベスト4の組み合わせが決まった時に東海大相模と銚子商が
別パートに入ったので決勝は銚子商と東海大相模の顔合わせを予想
していたらしい。
東海大相模は先述したように前年春を制した横浜の永川を打ち込ん
で甲子園に乗り込み初戦では工藤を擁する優勝候補の土浦日大に延長
16回の末にサヨナラ勝ちするなど、関東三羽烏の2人まで攻略して
いたので大方の予想は銚子商の決勝の相手は東海大相模というのは順
当だろう。
ところが東海大相模はベスト8で鹿児島実と球史に残る死闘の末に
延長15回で4-5で敗れ、勝った鹿児島実もエースの定岡正二が翌日
ホーム突入の際に手首を傷めて降板しただけでなくサヨナラ負けした
ので決勝の相手は防府商となったのだ。
エースの土屋正勝が在学中だった73年から74年が銚子商の黄金時代
だったものの73夏&74春は共にベスト8だった事から74夏はラストチャ
ンスだったわけで、こういった流れは頑張ってきた銚子商に対する
野球の神様からのプレゼントだったのかもしれない。
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銚子商の歴史を紐解けば65年夏に三池工に決勝で敗れて準優勝だった以外でもベスト8の常連でしたからね。
土屋がエース格になった73年春からの4季連続では相当
自信を持っていたでしょうが、いきなり報徳に0-16で
敗れてますけど銚子商史上初の初戦敗退だったので地元の風当たりも強く悲惨だったようですね。
優勝して帰郷して10日後に監督は胃潰瘍から吐血して
入院するハメになり、翌75年は習志野の年になったおかげで篠塚は最上級生の年に甲子園に出れずじまい。
76年夏は決勝で監督の息子のサヨナラHRで甲子園出場し初戦で高松商相手に延長の末競り勝って、東海大一にも完勝したものの桜美林相手にまさかの敗退でした。
そして77年春に初戦で大鉄相手に尾上の逆転3ランなどで逆転勝ちしたのを最後に85年夏まで甲子園から遠ざかるわけですが、74年当時に銚子商がそこまで弱体化するとは思いもしませんでした。
70年代後半も千葉商の後に我孫子や市銚子、80年代に入ると銚子西や印旛なども出場してましたけど、やはり
拓大紅陵が84年に登場してから86・88・92年とピークを迎えましたね。
90年代半ばからは市船橋も登場しましたし。
ちなみに沢井で選抜準優勝した銚子商を見ると牛島-香川の浪商が一代限りで復活したのと被ってしまいます。
やはり銚子名物の大漁旗を高野連が規制してからダメになったとも思いたくなりますよ。
拓大紅陵は88年も初戦で松山商に圧勝しながら3回戦では浜松商に競り負けてますしね。
92年など池田相手に9回に立川の逆転2ランで勝ち尽誠学園にも勝つなど四国勢には強いのですが、福岡県代表には65三池工&92西短といずれも決勝で敗れているように相性が悪いですね。
東海大浦安も初出場の時には津久見に、85年春は伊野商に完敗するなど意外に勝負弱く00年夏の準優勝のイメージが意外に沸きません。
市船橋は文徳相手の大逆転が印象に残るのですが、
サッカーほど強くはなれませんでしたね。
92年の西短は森尾の評価は高かったですが、それ以外は前年夏ベスト8でエースの田島が残っていた柳川や選抜出場の福岡工大に常盤あたりが有力でベスト4で柳川に3-0、決勝で福工大付に4-1で勝って出場を決めました。
森尾は絶妙のコントロールでキャッチャーのサイン通りに投げると打球が野手の正面をつくフォーメーションを敷いての試合ぶりでしたからランナーなしでセンター前に抜ける打球だったはずがショートやセカンドが2塁ベース後に守っていたり、1塁にランナーがいる場合は
塁間が空くはずなのにそこにセカンドやショートがいるという感じですね。
それでも10年後に判明したのは森尾は予選突破の時点で肘を痛めており3回戦以降は4連投で痛み止め注射を打っての登板でして、最終回では麻酔が切れて痛みに耐えながらの投球だったとの事。
その話をしたのが当時コーチをしていた筑陽学園の監督で‘森尾は甲子園の優勝と引き換えに上での活躍する機会を失ったが、甲子園で優勝するにはそれぐらいの覚悟が必要’と03夏に初出場時語ってまして、それ以降ここが甲子園にもかすりもしなくなりました。
ちなみに浜崎監督が西短の後率いた06延岡学園はエースが肘を故障し、それをおして投げてましたから浜崎さんが指導した投手は肘を壊しやすいのかと思いました。
余談ながら93年に西短はベスト8で小倉相手に土壇場で7-7と追い付き、なおも1アウト満塁でカウント3-1から
スクイズを敢行してキャッチャーがウエストしたので見逃せば押し出しサヨナラだったのに打者が飛び付いてフライを上げ併殺でサヨナラを逃し延長で勝ち越されて破れました。
社会人出身ゆえ社会人なら見逃すのでしょうが、高校生は冷静さを欠くというのを忘れていたという事になります。
93夏の西短がスクイズに失敗したパターンはその年の
選抜でも横浜が上宮戦で同じく満塁3ボールでスクイズのサインを出し、外されたボールに飛び付いてキャッチャーフライを上げて併殺というプレーがありました。
社会人なら冷静に見送って押し出しでしょうが、高校生ではそうはいかないようですね。
西短はその後も同じような守備体型を取ってますが、
森尾ほどコントロールがよくないので度々失敗してますから それが04年と10年の出場2度のみという事になってますね。
94年の東洋大姫路もベスト8にすら残ってないですから
初戦の育英戦でエネルギーを使い果たしたのか?
福岡第一は88年が各変で翌89年は古里が残ったとはいえ、目利きの人達で優勝候補に挙げる者はいませんでしたよ。
自由ヶ丘は理事長が悪名高い福原学園理事ですから今ひとつ優秀な監督が定着せず、相模に勝った時の監督は元柳川監督の末次秀樹でしたが翌年に辞任して赴任当時
10人しか部員がいなかった旧・九州工の監督に就任し話題になりました。
ここの理事長は監督に自分直通の携帯電話を持たせ、
負けると30分以上説教を受けるのが有名らしく末次氏の
辞任もそれが原因のようでして昨年のメンバーが末次氏を慕って入部した最後のメンバーでしたから これからは下り坂でしょう。
東福岡は監督が上尾に逆転サヨナラで小倉南が敗れた時の主将でして、才能集団なのにかつての北九州地区の1点に拘る逆噴射采配でガタガタにしてますから彼が監督の間は全く期待できません。
90年の8月13日は戎を擁して優勝を狙えた育英が、まだ
甲子園スターのオーラを醸し出していた中川の秋田経法付にサヨナラ負けからスタートし第3試合では山陽が2アウトランナーなしからの逆転サヨナラで勝つと第4試合も
星林が中標津相手に4-1から追い付かれたもののサヨナラ勝ちして84年に箕島が取手二に逆転負けして以来の和歌山県勢の連敗を止めた素晴らしい試合揃いでしたね。
もっとも第2試合の西短は桜井相手に1回表のみ0で残りは1点づつ並べるスミ0で完封勝ちしてましたから、こういうスコアも珍しいですね。
東福岡は先述したように監督の采配がチームの足を引っ張る形でしたけど、福工大城東は監督が74東海大相模の主将だった杉山氏でドカベンや定岡の息子達が入部するようにホークス関係者の息子が入部するケースが多いのですよ。
にも拘わらず04選抜で活躍したぐらいというのが謎なのですよ。
今頃は福岡の盟主になっていてもおかしくないのですけどね。
そうそう自由ヶ丘は98年選抜終了後に帰郷した元PLの
中村氏を監督に迎えようとした旧・直方学園(島田誠の母校)に横槍を入れ醜い争いを繰り広げたおかげで嫌気が差した中村氏は恐れをなして名古屋商科大の監督になったようです。
少子化により生徒の減少を高校野球で活躍する事により名を上げようと校名も直方学園から直方東に変更していたのですが、残念ながら生徒が集まらずに数年後に廃校となってしまいました。
それぐらい自由ヶ丘の理事長は えげつないので、末次監督の退任などはさもありなんと思ってましたから。
実は末次氏は名監督なのですよ。
柳川といえば江川にプッシュ打法で挑んだ73年から91年まで(80年~86年を除く)福田精一郎が率いていましたけど最後の91年にベスト8入りした以外は2勝のみ。
一方で末次氏が監督になってからは95年ベスト16や
00年の春夏ベスト8など初戦敗退は03春と05夏のみですから福岡では名監督と言われてますよ。
00年夏のチームも末次氏の作ったチームで香月の指の血豆が破れてなければ智弁和歌山にも勝てていたと今でも言われてます。
柳川を離れたのも暴力事件の責任を取らされた形で、
だからこそ自由ヶ丘に移ると有望選手が集まり10年春に
初出場し東海大相模に逆転勝ちするわけですね。
だから昨年のメンバーが末次監督を慕って入学した最後の世代ですから、残念ながら自由ヶ丘は弱体化するだろうといわれてます。