ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
28年前の今日・佐賀商と戦った
28年前の今日・81年5月30日に佐賀商と練習試合を行った。
なぜ我々のような弱小校と佐賀商が戦えたかというと、この年の選抜に
出場した築上中部との練習試合が31日に行われる予定だった。
どうせなら通り道にあたる田川と前日の30日に対戦しようという話が
あったが、田川は既に練習試合のスケジュールが決まっていて我が西田川
は田川に新チーム結成以来3戦全勝という事で急遽対戦できる事になった
のだ。
当時の佐賀商は2年前の79年に出場し1勝していた。
実は我々が入学当初は西田川のストッキングは紺だったのだが、この年
に出場した佐賀商の白地に紺のラインのストッキングを見て先輩達が
‘こっちの方がカッコいい’という事で79年の新チームからストッキングは
白地に紺のラインに変更していた。
実際に見ると佐賀商ナインは我々より一回り大きい。
とはいえ、この年の佐賀商は2年生主体のチームではあったから
‘我々の力がどこまで通じるか?’と思って挑んだのだ。
1回表に2アウトから3番の日蓮クンがヒットで出塁すると、2回には1アウト
から6番が左中間を破り7番の内野安打で1アウト1・3塁と攻め立てる。
しかし後続が断たれて得点できなかったものの4回まで毎回安打で
‘このピッチャー大した事ないぞ’と思っていた。
ところが5回から別人のように球が速くなり文字通り手も足も出なくなった。
結局5回以降はエラー気味の内野安打1本のみ、かくいう私も代打で出て
あえなく三振しているがムチャクチャ球が速かった。
一方ウチのエースから佐賀商打線は1点づつ挙げていき、終わってみれば
0-4の完敗だった。
この2年生主体だった佐賀商は翌82年夏に佐賀商史上最強チームとして
甲子園に乗り込み2勝を挙げた。
エースは後にライオンズなどで活躍した新谷博で、初戦の木造戦では27人
目の打者に死球を与えパーフェクトを逃した投手である。
また甲子園でホームランを打った田中や4番を打っていた為永なども我々
と戦ったメンバーにいたようだ。
こんな凄いチームと対戦できたのは一生の思い出であり、チーム唯一の
2ベースを放った6番の男など‘オレは新谷から2ベースを打ったぞ’と今でも
嬉しそうに言う。
当然のように それ以来 佐賀商に対して
親しみを感じるようになる。
だから94年夏に優勝した時は我が事のように
嬉しかったのだ。
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新谷‐田中のバッテリーは本当に超高校級でした。同一チームから2人プロへ進むというのは当時の佐賀代表としては珍しく、それほどスケールの大きさを感じさせましたね。今もまだ達成されていない夏の完全試合にもっとも迫った男が新谷でしたし、満塁アーチで2度優勝の佐賀はカルト的な歴史を所々に残してますね。ワンバウンド満塁アーチも春の珍事でしたし‥。
ストッキングとかユニフォームを変えて復活した例として享栄が思い出されます。79年に柴垣監督が就任した頃は長い低迷が続いていたこともあり、白地に黒ラインのストッキングを黒字に白ラインに変更(アンダーシャツや帽子も‥?)。見た目もビシッと見えるようになったことで選手のモチベーションが上がり、さらに藤王、伊藤紀、平田などの好素材が入学。。。3年目に選抜に出場、翌夏の甲子園へとつながったそうです。そんな享栄も柴垣氏が去り、九学・反藤に完封された2000年春が最後となってますね。再びの復活を期待したいところです
こーじさんの81年夏は佐賀学園が出ましたね。翌年、完全無敵を誇った佐賀商もまだ粗削りだったのかも知れません。選抜で日立工との雨中初陣対決に惜敗の築上中部・林川も懐かしいですね。日立工は桜美林戦で投打に大活躍の左腕永井が今もインパクトがあります。その3校をはじめPL、印旛、倉吉北、上宮、高松商、御坊商工、大府、北海道日大など夏も見たかったんですけどね。
西田川高校、甲子園初出場を目指して日々奮闘されますことを期待しております~!!
はっきり言って82年の佐賀商は勝った津久見より強いと確信してました。
違いがあるとすれば甲子園での勝ち方を知っていたという事でしょうね。
81年の佐賀学園を見たら‘佐賀商の方が絶対強い’とみんなで言ってましたよ。
日立工の永井は築上中部戦ではスクイズを指でやったようですね。
桜美林戦は影響を感じさせなかったですが、PL戦では限界に来ていたようですね。
全国制覇・佐賀北の時代が来るのか?とも思いましたが、昨年は佐賀商がきっちりと復権。コンスタントに出続けている伝統はやはり重いですね。北野監督就任後の福井商は別格として、富山商(あるいは高岡商)、松商学園、鳥取西、徳島商なども佐賀商と同様、戦前からほぼ県のリーダーとして存在感を守り続けているといえるのではないでしょうか。
81年夏の佐賀学園はあっさりと浜松西・宮田に完封されましたから、‘佐賀商だったなら‥’とやはり思いますよね。浜松西が次の北陽戦に惜敗したことを思うと、佐賀商であれば北陽を倒していた可能性は十分です。
佐賀学園はやはり若林の91年がベストでしたね。その活躍により同校はさらにブレイクすると思われたのに98年夏に一度復活したのみに終始しています。一時強かった龍谷も中井の89年春ベスト8がピークでしたね。
81年春、延岡工が3連続スクイズで東海大四を下した試合も印象深いです。新顔が常連相手になかなかその様な攻めは考えられないですよね。76年夏の初陣から甲子園1勝が遠い東海大四の初勝利は86年夏、伊良部(2年)の尽誠学園をサヨナラで下しての悲願達成。同じ北海道の北照も00年春に苦節10年目の初勝利でしたが、河上監督はお立ち台で涙を浮かべていました。初陣だった91年夏、いきなり沖水に冷や汗をかかせる大健闘でしたから、当初からチーム力はあったのですよね‥☆
なんでもバスでの移動で疲れていたようで、立ち上がりは大した事なかったですけどね。
5回から別人でしたよ。
九州決戦で最も負けているのは長崎県勢で、07年の
長崎日大が楊志館に勝ったのが初勝利だったようですよ。
わりあい田舎では公立の方がいい人材が集まるようですね。
だから佐賀などは佐賀学園や竜谷より佐賀商やラグビーの佐賀工などの方が名門になりやすいのかもしれません。
東海大四の甲子園初勝利を献上した伊良部は試合後
‘あれぐらい取ってくれないと’と激怒して当り散らしていたのが印象的でした。
佐賀工などほぼ寡占状態の県代表は、少子化・ラグビー人口の減少で年々顕著になっているように思います。野球の甲子園、サッカーの国立に比べるとラグビー花園のステータスは大きく劣っているのが実情でしょう。福岡2校の頃、久我山、目黒、本郷、大工大、天理、花園、伏見工、秋田工、大分舞鶴など激しく飛球の旗を目指して争った7~80年代が懐かしいですね
新谷はプロ入り時は30才くらいだったこともあってか大きく食い込むシュート、外へ逃げるスライダーなど変化球を多用するイメージに変わりつつありましたね。関大一・久保(現阪神)も当時に比べるとクイック気味なフォームで制球重視のような感じに見受けます。
佐賀商・為永は力感あふれるスイングでしたし、津久見の伊東は掛布二世と称された華麗さがありましたよね。
ボクサーは一頃ほどでないにしろ、やはり孤独でナーバスなタイプが多いでしょうね。私が仮に戦うとなっても同じ関西でも神戸、京都、奈良、和歌山では微妙にイメージが違いますからね。やっぱり出来れば大阪がいいですよ。ファン(府県民)の気質が分かるぶん、どことなく安心感があるように思うんですよね。
新谷はプロ入りしたときは変化球投手になってましたね。
日本生命からは木村恵二がホークスから1位指名されたのですが、木村以上に新谷の方が長持ちしました。
やはり根本さんの見る目は凄いと思いましたよ。
原辰徳が高校時代から‘ここ1番’で打たなかったり
定岡正二が防府商戦でホーム突入時に右手を痛めるなど高校時代の所作が後々まで続くケースはあるもの。
伊良部の所業をみるとそれを実感しましたよ。
いらっしゃいませ、初めまして。
日立工といえば81年春に初戦で築上中部と対戦し1-2で迎えた9回表に連続スクイズで逆転勝ちし、2回戦では桜美林にも勝ってますからね。
その時のイメージが強いです。
ユニフォーム的には東大を除く東京六大学のユニフォームがデザインベースになっている学校多いですよね。
銚子商などグレーの時と法政系という2種類のユニを使い分けてます。