日本ハム・大田が地元ファンに挨拶 「巨人の大田は1回忘れて」
08年のドラフト1位でジャイアンツに入団した大田泰示が、今
オフに吉川光夫らとのトレードでファイターズに移籍した。
個人的にジャイアンツは阿部慎之助以降 強打者タイプがいない
ので07年のドラフトでは中田翔を取りに行くのではと思っていた
のだが、翌08年に大田を取ったので中田よりも大田の方を評価し
ていたのだろうと思ったし大田を松井秀喜を獲得した時のように
して育成するのだろうと期待していた。
そして大田育成に松井秀喜を4番として育て上げたノウハウを
生かすのではと思っていたのだ。
松井は1年目こそ1軍と2軍を行き来していたのだが9月ぐらい
になると優勝が絶望的になった事から7番レフトで起用され続け、
2年目には落合博満をFAで獲得して4番を打たせ松井を落合の前
の3番として使い続けた。
長嶋茂雄監督は4番に三冠王を取れる資質を求めていた事から、
三冠王を3回獲得した落合を40歳にも拘らず生きた手本として
松井の後ろを打たせていたのだった。
そして入団4年目の96年に松井が始めてホームラン王争いをする
までになると落合の契約が切れた97年からは清原和博、00年からは
江藤智らを獲得して競わせる形で02年には遂に三冠王一歩手前まで
育て上げたのだ。
これは松井にとって落合が師匠的な存在なのに対して、年代的にも
清原や江藤はライバルになるので彼らと競い合ってという考えだった
ようだ。
大田は右打者で足も速いので例えばプロ入り3年目の11年ぐらい
から4番の阿部の前である3番を打たせてクリーンアップに慣れさ
せるなど、チームを挙げて大田を育てる姿勢を見せていたらと思っ
たのだが実際には3番は坂本勇人が座る形になったのだ。
大田が育たなかったのは本人の実力or努力不足という面もある
だろうが、当時の原辰徳監督ら首脳陣に‘大田を将来の4番に据え
る’という意気込みがあれば中途半端な起用法はされなかったので
はないか。
しかも14年ぐらいから阿部の成績も下降線を辿りフル出場すら
危ぶまれるようになったので、阿部の前を打たせて育てるプランは
もはや使えないし阿部以外に若手打者の生きた手本として成長を
フォローできる選手がいないのがジャイアンツの現状だ。