一葉一楽

寺社百景

円覚寺 - 世俗との共存

2011-11-11 20:00:39 | 寺院

円覚寺、建長寺も同じだが、主要伽藍は開放しているものの、塔頭に拝観を断っているところが多い。修行の場という性格を守るためであろう。寺院経営という観点から見ると難しい問題を抱えていると推察される。堂塔の修復、再建には借りなければ、それもままならない。度々の炎上も時の権勢の援助で再興されてきた。仏殿は寛永2年(1625年)、僧堂であった今の選佛堂は元禄12年(1699年)、このあたりまでは、武士階級に寄進する力があったのであろう。しかし今専門道場となっている正続院が再建を果たしたのは天明4年(1784年)、佛日庵は文化8年(1811年)と、塔頭再興には時間を要している。世俗の力を借りなければままならなかったからであろう。

      

     選佛堂            佛日庵(時宗廟)

三門、天明3年(1783年)(「新編相模国風土記稿」には寛政元年、1799年、の再造とある)の再建である。天明3年は浅間山が大爆発を起こし、この前年からの飢饉の被害を拡大させた年である。この飢饉の最中、「天明集成絲綸録」には天明2年に円覚寺が、伊豆、甲斐、信濃、陸奥、上総、下総に大殿、三門の修復・再建のため勧進をしたことが載っている。

            

            三門

関東大震災は正続院の禅堂、舎利殿、そして仏殿を全壊させた。仏殿の再建が成ったのは昭和38年(1963年)であった。一方舎利殿は大震災後大正14年(1925年)に再建。舎利殿は永禄6年(1563年)の元々の舎利殿が焼亡後、鎌倉尼五山の第一位太平寺仏殿を北条氏康が天正年間(1580年代?)に昭堂として移築と伝えられているようである。舎利殿を最初に真近に見たのは昭和39年の正月であったと記憶している。茅葺であった。�達葺になったのは昭和43年(1968年)、�達葺であった証拠が見つかったからだという。また建立時期は形の似ている正福寺地蔵堂からの類推であるそうだ。内部が丹塗されていたようだが(毎日新聞「不滅の建築7」)、そこまでは復元されていない。赤い舎利殿を想像するのも楽しいではないか。解体修理した時、何処までを修理というのか。更には禅宗様建築のモデルとしての「国宝」としての問題はないのだろうか。いずれにしても世俗の問題で、禅の本質に関わる問題ではない。

              

              舎利殿

(注)2010年11月撮影

            

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