一葉一楽

寺社百景

大崎八幡宮 ー 都らしさの移植

2012-02-03 13:49:46 | 神社

多賀城碑、「西」と最上部に刻まれ、「去京一千五百里」と続ける。平城京から離れ、この地にいた恵美朝�紡の心境であろう。伊達政宗にはこの自負や感傷はない。都を持ってくればよいと発想した。

大崎八幡宮は北野天満宮と同じ慶長12年(1607年)の造営である。棟札や「治家記録引証記」に大工は山城国の(梅村)日向守家次、棟梁に紀伊国の(梅村)三十郎頼次、そして「天下無双之巧人」刑部左衛門国次、更に鍛冶雅楽助吉家、絵師は佐久間左京の名前が挙がっている。山城又は紀伊から人を呼んで仙台の地に都の華やかさを演出した。豊国社造営には紀伊の平内一門がからんでいたようだが、梅村一門が全く無関係であったとはいえまいが、北野天満宮には関わりようがない。かえって京の工匠たちの取り合いがあったかもしれない。廻廊のない豊国社がみちのくの地に出来あがったのである。都の技術の地方への伝播である。もっともそれ以上の発達はなかったようだが。

      

(注)1966年5月撮影

             

       

(注)1964年5月撮影 

         

(注)1966年6月撮影

豊国社にしろ、北野天満宮にしろ人を神として祀る。石の間造(権現造)はこのための様式だと言われているよだが、大崎八幡宮の祭神は所謂八幡神である。単に神社の一様式として、豊国社を真似たのであろう。石の間の内部、北野天満宮と同様に本殿の軒を見せるが、石の間にも折上格天井と、また全体に建築装飾と北野天満宮と比べ華美である。また次に来る中井大和守の元和度東照宮をも凌駕する。伊達政宗の好みは徳川家康ではなく、豊臣秀吉に近かったのでは。

1963年当時の内部の写真を紹介する。昭和41年(1966年)の部分修理、平成12年(2000年)-平成16年(2004年)の半解体修理の前の姿である。

      

(注)1963年10月撮影

 

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