和辻哲郎の「古寺巡礼」に「やはり天平建築らしい確かさだと思う。あの簡素な構造を以てして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない」(岩波書店、改訂版)とある。大正6年(1917年)5月のことである。天平建築を云っているのか、新薬師寺の本堂のことを云っているのか曖昧さが残る文章であるが、関野貞による明治30年(1897年)の復元を知っての発言である。明治の修理では延慶3年(1310年)に付加されていた礼堂や内部天井が撤去された(村上訊一「文化財建造物の保存と修理の歩み」日本の美術525)。確かに写真から見る限りでは、天平風の屋根に向拝がとりついた本堂の姿は奇妙に見える。しかし鎌倉末期、特権階級だけでなく庶民にまで広がった薬師信仰には向拝は不可欠であったのであろう。その庶民の薬師信仰があったから、明治まで新薬師寺が生き残ったのであろうと考えると、向拝撤去は新薬師寺の行き方を大きく変えたものではなかろうか。
本堂
鐘楼
(注)2011年1月撮影
「東大寺要録」に天平19年(747年)「仁聖皇后縁天皇不予。立新薬師寺?造七仏薬師像」とある。薬師寺が天武天皇が持統天皇の病平癒の祈願であったのに対応しての「新」薬師寺であったのでは。東大寺が国家、新薬師寺は個人を、また東大寺は未来、新薬師寺は現世を指向とセットとなった造営であったようである。この新薬師寺、「東大寺山堺四至図」に東大寺の伽藍とともに、ポツンと新薬師堂と描かれ、その位置に2008年、その跡が発掘されている。現本堂の造営時期は不明である。総供養の宝亀3年(772年)までには出来あがっていたのであろう。以降衰退の道を辿り、鎌倉時代に寺域を狭くし再興、これが現伽藍である。
以下は1964年当時の写真である。古寺の風情である。本堂内への光は扉を半開きにし取り入れているだけであった。明治修理前の図面を見ると、連子窓がある。庶民一般の利便性を考えれば当然であろう。
(注)1964年8月撮影