釈迦を祀る多宝塔は位置を変え、薬師如来を祀る本地堂は現寛永寺に移り、山王一実神道の本地たる仏の軸はなく、天海の描いた世界は消えた。この仏の軸線は嘗ての星野山無量寿寺の中心軸であり、喜多院は、この軸の外側に山門があるように、無量寿寺の一支院にすぎなかった。とは云え、無量寿寺、山王神道に基づいた護法神たる山王日吉社(日枝神社)を勧請し、関東天台宗の本山であった。
多宝塔
慈恵堂 山門
鐘楼門 慈眼堂
日枝神社
(注)2012年7月撮影
天海の影堂が古墳の上に建立され、山王一実神道の世界が完成する。仏の軸線に人、そして神の軸が直交する。正保ニ年(1645年)である。慈眼堂にしろ、東照宮にしろ、仏の水平面より高い。特に東照宮は直交点からは社殿は見えない。石段が蕃塀の役割を果たしているようである。どこまで計算されていたのか分からぬが。それにしても、多宝塔、本地堂の移築は、喜多院の伽藍配置の意味を毀すものであると云わざるをえない。