一葉一楽

寺社百景

東寺 ー 権力の盛衰

2013-10-13 21:45:33 | 寺院

「愚管抄」に「寺モナキガ如クニ成リ候」とある東寺を再興するには、「行ハアレド学ハナキ」文覚が必要であった。古代政権が衰え、中世政権の勃興と云えるだろうか。仏像中心の修復であったようだが、権力に接近し援助を得るのは、その後も続く(「中世東寺と東寺領荘園」網野善彦著作集第2巻 岩波書店 2007年9月)。文明十八年(1486年)土一揆立て籠もり、そして放火による中心伽藍の焼失までである。応仁から文明までは、東寺としては重要な行事である、鎮護国家を祈る後七日法、大師信仰の象徴ともいえる御影供、また長者拝堂もままならぬ状態であった(「東寺長者補任」第五巻)。まさに民衆とは言えないが、既存勢力が衰え、第三勢力の萌芽時期であった。

                 

                         講堂

講堂が再建されたのは延徳3年(1491年)、立体曼荼羅も含め再興したのは明応6年(1497年)であろうか。「東寺長者補任」に「講堂大日御造立、大日者中島ト云蔵方者作也」とある。次いで文亀元年(1501年)に南大門、五重塔は永禄7年(1564年)に再建されている。しかし食堂、中門等々も再建されたものの、金堂は再建されていない。文禄5年(1596年)の地震で影響を受けた堂塔の中に金堂だは含まれていない(「義演准后日記」)。東寺にとっては講堂とその中の立体曼陀羅がすべてのようである。金堂が再建されたのは慶長8年(1603年)、豊臣秀頼と棟札にある。当初の施主は、顛倒した講堂の再建と同様、北政所のようである(「重要文化財教王護国寺東大門ほか三棟修理工事報告書」京都府教育庁指導部文化財保護課 2013年3月)。秀吉死後の豊臣家の安泰を願った寄進であったのであろうか。

                     

                               金堂

                         

                              五重塔

               

                       大師堂                 潅頂院

(注)2009年9月撮影

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