寛永17年(1640年)前田光高が幕府から許可を得て、東照権現を勧請し、金沢城北の丸に造営したのが、明治7年(1874年)に改称し尾崎神社となった金沢東照宮である。寛永20年(1643年)に完成し、明治11年(1878年)現在地に移築された。独立本殿と拝・幣殿からなり、所謂権現造ではない。また外様大名による東照宮勧請は藤堂藩、津軽藩に次ぐが、実質的には幕府指導した、大工頭の木原義久設計の、東照宮としては、他藩のさきがけであろう。
金沢東照宮と同じ構成、独立本殿+拝・幣殿複合社殿である同時期の東照宮として、拝・幣殿の完成時期に若干の疑問はあるあるが、寛永17年(1640年)完成の焼失再建後の仙波東照宮を挙げることができる。金沢東照宮は、この仙波東照宮の構成を踏襲したと考えられる。幕府主導の東照宮造営であっても、将軍、或いは御三家以外が参詣する東照宮の規範と、仙波東照宮はなったのであろう。権現造は、少なくとも諸藩の東照権現勧請には許可されなかったといえる。木原義久の設計図に従って造営せざるを得なかったのであろう。東照権現とは、同一空間には入れなかった。(参照:石川県教育委員会文化財課金沢城研究調査室編「金沢東照宮(尾崎神社)の研究」 2006年3月)。
拝・幣殿
中門・本殿
透塀・中門
(注)2013年12月撮影