縄文・弥生時代の遺跡がある所に初期勝常寺が建立されたようである。その伽藍は第ニ期或いは現在の伽藍とは25度傾いた軸線を持っていた。徳一創建と云われる伽藍跡であろうか。(「堂後遺跡現地説明会資料」湯川村 2010-2013年)この頃のものと思われる、何処か奈良・京都とは雰囲気の異なる、厳しさを醸し出した仏像も残る。
現存する薬師堂は、寛文十二年(1672)向井吉重編の「会津旧事雑考」に応永五年(1398)修復とあることから、この年再建とされている。徳一創建の恵日寺の寺侍出身と云われている、葦名氏重臣の富田氏が奉行したらしいが、どこまで伽藍が復興したのかは分からない。もっともこの前身の、第二期伽藍も何時造営されたのかも不明であるが。再建伽藍も、薬師堂を除き、伊達政宗の会津侵攻で焼失。徳一像も切りつけられたと云う。
勝常寺修復供養は蒲生氏を経て加藤氏の時代、寛永十五年(1638)である。保科正之が会津に入ったのは、寛永二十年(1643)である。保科正之は吉川神道を信奉しており、仏都会津にあった寺院は整理の憂き目にあっている。民間の薬師信仰や観音信仰に、或いは真言宗に転宗し、徳一ならぬ空海に依存し生き残ることになる。会津藩の支援は、各寺院の画一的な仁王門に象徴される。薬師堂とは釣り合わない。
仁王門
薬師堂
2014年6月撮影
現存する薬師堂は、寛文十二年(1672)向井吉重編の「会津旧事雑考」に応永五年(1398)修復とあることから、この年再建とされている。徳一創建の恵日寺の寺侍出身と云われている、葦名氏重臣の富田氏が奉行したらしいが、どこまで伽藍が復興したのかは分からない。もっともこの前身の、第二期伽藍も何時造営されたのかも不明であるが。再建伽藍も、薬師堂を除き、伊達政宗の会津侵攻で焼失。徳一像も切りつけられたと云う。
勝常寺修復供養は蒲生氏を経て加藤氏の時代、寛永十五年(1638)である。保科正之が会津に入ったのは、寛永二十年(1643)である。保科正之は吉川神道を信奉しており、仏都会津にあった寺院は整理の憂き目にあっている。民間の薬師信仰や観音信仰に、或いは真言宗に転宗し、徳一ならぬ空海に依存し生き残ることになる。会津藩の支援は、各寺院の画一的な仁王門に象徴される。薬師堂とは釣り合わない。
仁王門
薬師堂
2014年6月撮影