一葉一楽

寺社百景

高倉寺観音堂 ー 屋根の変遷

2015-02-17 12:17:11 | 寺院
観音堂は、「新編武蔵風土記稿」に「相伝フ此堂ハ昔シ故アッテ新座郡(高麗郡の間違い)白子村ヨリ引来リシ由」とある。享保十九年(1734)老中黒田直邦(武蔵七党の一つ丹党の末裔)が弟延貞の供養のため、観音堂を建て替えた。この時高倉寺が古い観音堂を請い移築したものである。この移築の時、そして昭和二十六-二十九年(1951-4)の解体修理の際に、小屋組、柱間装置を変えたため、外観は全く現在と異なっていたようである。総反りの入母屋造・茅葺型銅板葺の今の形は昭和の解体修理の結果である。「紀要」にある修理前の写真を見ると、トタン葺(大正十一年(1922)に茅葺から替えたようである)宝形造で、縁もない(参照 「入間市博物館紀要 第9号」2011年)。多分移築時の姿であろう。
創建時の姿を考える上で、白子の隣、虎秀にある同じ臨済宗(長秀寺は臨済宗から曹洞宗に江戸時代に改宗している)の福徳寺阿弥陀堂(鎌倉中期、1290年代の造営と推定されている)を参考にしなければならなかったであろう。残念なことに、この阿弥陀堂は解体修理されたのは昭和三十一年(1956)で、観音堂修理時は、茅葺・寄棟造であった。現在は宝形造と創建時の姿となっている。白子長秀寺観音堂は、この阿弥陀堂を見て建てられたであろうことを、また遅れて禅宗様が浸透してきたことを考慮すべきであろう。因みに建長寺は建長五年(1253)、円覚寺は弘安五年(1282)創建である。禅宗様仏堂であるが、土間ではなく床を持つということも含めて、村という単位で見なければならないだろう。


     

(注)2015年2月撮影
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