一葉一楽

寺社百景

飯香岡八幡宮 ー 荘園の経営

2015-09-06 16:42:56 | 神社
飯香岡八幡宮の名前が史料の上での初見は、元禄四年(1691)の「上麻惣社飯香岡八幡宮由緒本記」のようである。現在の権現造となった年である。以前は、寛文八年(1668)の縁起では「市東荘八幡宮」である(「重要文化財飯香岡八幡宮本殿修理工事報告書」修理委員会編 1968)。また八幡宮に伝わる江戸幕府の朱印状では、市原郡「八幡宮」である(飯香岡八幡宮 Facebookから)。少なくとも天正十九年(1591)家康の朱印状以降は市原郡の「八幡宮」といえば、飯香岡八幡宮を指したようである。
保元三年(1158)石清水八幡宮の「諸国庄園官符」に「上総国 市原別宮」とあるが、この別宮が飯香岡八幡宮の前身社ではないかと云われている(桜井敦史「市原八幡宮と中世八幡の都市形成」市原市文化財センター研究紀要V所収 2005)。保元三年の時点で別宮は十八ケ国に三十五ケ所あったが、荘園の経営拠点であった。当然そこには八幡神が勧請されてくる。史料に出てくる市原八幡宮は別宮の鎌倉・室町時代の姿であろうが、残る史料はその所領に関する内容である。何処の寺社も同じだが、維持するための経済基盤を確保することが、最大の関心事であったのであろう。権力に依存するか、人々の信奉に頼むか、であろうか。


 拝殿

    本殿

(注)2015年5月撮影

家康の朱印状が出された前年、天正十八年(1590)の絵図が残っているが、社殿は海に面し、海中にも鳥居があった風景が描かれている(飯香岡八幡宮Facebookから)。寛文八年(1668)の「縁起」に書かれた伝承と符号する。ただ祭神が船玉命ではなく、八幡神であることから推測すると、八幡神は海を渡ってきたのかもしれない。陸路であれば、国衙のあったと推定される市原台地にあったと考えるのが自然だと思うが。
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