好島庄は鎌倉幕府が、その関東御領を石清水八幡宮に寄進して成立、当八幡宮の別当には地頭岩城清隆の嫡子師隆がなり、供僧も同時に置いた。元久三年(1206)に社殿完成、建永元年(1206)北条政子を本願とし遷宮している。承元三年(1209)には経蔵も完成している。当初より寺が神社を管理経営する形であった。とは云え岩城氏の本領安堵の意図が見える。
現在の社殿は、物見岡から現在地に移った後、慶長十九年(1614)に焼失、翌元和元年(1615)から再建された。
楼門
神楽殿
拝幣殿
本殿
(注)2014年3月撮影
文政九年(1826)鍋田三善編の「磐城志」は慶長期と推定される境内図と文政当時の境内図を載せる。ともに、土手で社域と寺域は明確に区別されていた。慶長期には、本殿横に本地仏である阿弥陀如来を祀る本地堂が、寺域には釈迦塔と呼ぶ三重塔が描かれている。しかし焼失後は、釈迦塔は再建されず、阿弥陀堂が建立された。社域はかなり仏教色が払拭され、神社と寺院が並列する形となった。鳥居氏から内藤氏に領主が替わった頃、寛永四年(1627)である。現在見る権現造に改造されたのは、拝・幣殿が建設された延宝二年(1674)で、権現造としては早い時期といえる。幕府が関与していたのであろうか。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」1996年9月)
現在の社殿は、物見岡から現在地に移った後、慶長十九年(1614)に焼失、翌元和元年(1615)から再建された。
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(注)2014年3月撮影
文政九年(1826)鍋田三善編の「磐城志」は慶長期と推定される境内図と文政当時の境内図を載せる。ともに、土手で社域と寺域は明確に区別されていた。慶長期には、本殿横に本地仏である阿弥陀如来を祀る本地堂が、寺域には釈迦塔と呼ぶ三重塔が描かれている。しかし焼失後は、釈迦塔は再建されず、阿弥陀堂が建立された。社域はかなり仏教色が払拭され、神社と寺院が並列する形となった。鳥居氏から内藤氏に領主が替わった頃、寛永四年(1627)である。現在見る権現造に改造されたのは、拝・幣殿が建設された延宝二年(1674)で、権現造としては早い時期といえる。幕府が関与していたのであろうか。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」1996年9月)