ビビッド能里子トーク・サロン

医学的にも珍しい満十年の認知症介護について。自己分析や気分転換、幸せを感じる心の癖の付け方、メチャ料理など楽しく書きます

私は童謡歌手だった!

2020-02-13 15:16:50 | エッセー

 昨夜は東京オペラシティ出演のための、最終レッスンだったが、歌唱指導の先生は私達が指導したように歌えないので、きっとイライラなさっていたのだと思う。素人で高齢者のメンバーなので、一生懸命歌ったつもりでも、先生の期待どおりにはいかないのだ。申し訳ないのだが、これも限界なのだろうが、土曜日に東京オペラシティに出演するのは、とても嬉しい。実は私は幼い頃から大ステージは、何度か立ったことがあった。

 ※ その頃新聞や雑誌に掲載された写真

私は3歳の時麻布にあった音楽学校(といつも両親は言っていた)へオーデションを受けて入ったが、それは雨が降っている日で、兄も受けたが落ちたようだ。先生は音楽家の「桑原哲郎先生」だったが、幼児の合唱団をつくりたいと思っていたようだ。私はそれから毎週母に連れられて、新橋から都電に乗り換え麻布まで通ったが、何より嬉しかったのは、その日は声のためにとアメ、チョコレートなど好きなものを必ず買ってくれたことだ。思えば「声に悪いから」と食べさせてもらえないものが沢山あった。その頃は大変有名で海外へ紹介されたり、新聞や子供の雑誌などにも随分掲載されたようだ。

 父の妹が上野音楽学校(現在芸大)を卒業して声楽家だったが、私がその血をひいたと思ったのか、父は大変熱心だった。その頃キングレコード専属の「桑原豆歌手隊」は大変有名だったようで、海外まで紹介されていたようだ。だんだん戦争が激しくなるにつれ、自然に解散されたようだが、幼い私は怒涛のような大喝采は、何度も体験していた。この年齢で思いがけなく大ステージに出るが、最後に歌うので、多分客席はガラガラではないかと思っているが、でも人生にはいろいろな事があるものだ。ましてや、私が元でできたオリジナル「魔女の唄」を歌うなんて・・

多分ドイツの新聞に掲載された記事 右前が私

またさっき学会関係の弁護士さんから、こんなSMが入っていた「84歳にして30歳位のピチピチワクワクの元気さ、ますます素晴らしいとおもいます。また、ご主人に対する丁寧で愛情のこもった介護は頭がさがります。お元気で人生を楽しんで下さい。またお会いする日を楽しみにしています」と。ちょっとご機嫌になった午後だった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする