虎口より。T字路を左へ上って、長浜城最大の曲輪となる第二曲輪へ。
第二曲輪の入口には樹齢数百年はあると思われる巨大な木が生えている。
これが階段の途中にあった漁業資料に記されていた、魚見の松だろうか?
665㎡の面積をもつ第二曲輪からは、発掘調査により180もの穴が見つかっている。
これらは位置をずらして建て替えられていたとされる掘立柱建物跡と見られており
その中でも第1号建物と、それに直交する形の第6号建物の柱が復元表示されていた。
掘立柱建物については、正確な事は分かっていないようだが
兵舎や食料庫として利用されていたと考えられているとの事。
またここには掘立柱建物跡の解説版の他にも、土塁と堀についての解説版もある。
長浜城の土塁は、共通して全てが陸側にのみ作られており、海側の守りに関しては
防御施設の配置と、繋留されていた安宅船によって行われていたと伝承されている。
第二曲輪と第一曲輪の間の安山岩を削って掘られた、長さ約8m、深さ約1.6mの堀切。
城が現役の頃は今よりも高い土塁と合わせ、より強固に侵入者への妨げになっていた。
そんな第二曲輪から、第一曲輪へと上る事ができる唯一の手段が、櫓。
現在建てられている櫓も、発掘された柱穴の上に正確に復元された物だ。
オリジナルの櫓は、3度も建て直しがされ、海側の監視を行う上でも
非常に重要な建造物であったと同時に、長浜城の象徴にもなっていた。
櫓を上って、長浜城の頂上となる第一曲輪へと到着。この第一曲輪にも
北-西-南にわたってL字型の土塁が設けられており、さらに西-南-東に
L字型の塀も建てられた2重構造で内部の様子が見えない造りになっていた。
海に面した北東側には、その内部へ入るための門があったようだが
現在は大きな木が立っているため、あまり当時の様子は残っていない。
この近くに住み着いているのか、ここでは野生のツグミをよく見かける。
標高34m。長浜城の最も高い位置にある第一曲輪から眺めた、内浦湾の景色。
今となっては富士山と駿河湾の景勝地だが、当時はここから武田軍が築いた
三枚橋城(現:沼津市中央公園)を監視したり、水軍を指揮していたのだろう。
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第二曲輪の入口には樹齢数百年はあると思われる巨大な木が生えている。
これが階段の途中にあった漁業資料に記されていた、魚見の松だろうか?
665㎡の面積をもつ第二曲輪からは、発掘調査により180もの穴が見つかっている。
これらは位置をずらして建て替えられていたとされる掘立柱建物跡と見られており
その中でも第1号建物と、それに直交する形の第6号建物の柱が復元表示されていた。
掘立柱建物については、正確な事は分かっていないようだが
兵舎や食料庫として利用されていたと考えられているとの事。
またここには掘立柱建物跡の解説版の他にも、土塁と堀についての解説版もある。
長浜城の土塁は、共通して全てが陸側にのみ作られており、海側の守りに関しては
防御施設の配置と、繋留されていた安宅船によって行われていたと伝承されている。
第二曲輪と第一曲輪の間の安山岩を削って掘られた、長さ約8m、深さ約1.6mの堀切。
城が現役の頃は今よりも高い土塁と合わせ、より強固に侵入者への妨げになっていた。
そんな第二曲輪から、第一曲輪へと上る事ができる唯一の手段が、櫓。
現在建てられている櫓も、発掘された柱穴の上に正確に復元された物だ。
オリジナルの櫓は、3度も建て直しがされ、海側の監視を行う上でも
非常に重要な建造物であったと同時に、長浜城の象徴にもなっていた。
櫓を上って、長浜城の頂上となる第一曲輪へと到着。この第一曲輪にも
北-西-南にわたってL字型の土塁が設けられており、さらに西-南-東に
L字型の塀も建てられた2重構造で内部の様子が見えない造りになっていた。
海に面した北東側には、その内部へ入るための門があったようだが
現在は大きな木が立っているため、あまり当時の様子は残っていない。
この近くに住み着いているのか、ここでは野生のツグミをよく見かける。
標高34m。長浜城の最も高い位置にある第一曲輪から眺めた、内浦湾の景色。
今となっては富士山と駿河湾の景勝地だが、当時はここから武田軍が築いた
三枚橋城(現:沼津市中央公園)を監視したり、水軍を指揮していたのだろう。
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