世はヘイトスピーチ規制で一色のようですね。いまやヘイトスピーチ規制に異を唱えているのは憲法学者くらい?
私もヘイトスピーチは解消されるのが望ましいしヘイトスピーチは人として恥ずかしいと思います。でも法的な規制はやはりおかしい。表現の自由で一番大事なことは、表現内容の善悪や価値を判断するのは表現者や受け手であって、公権力はその判断をしてはならないということです。
日本が男女差別や人種差別に満ち溢れている国だと仮定しましょう。そのときに、少数派の市民が「差別断固反対! セクシスト(あるいはレイシスト)は叩きのめせ」という集会やデモ行進をする自由は当然認められるべきでしょう。
もちろんヘイトスピーチが特定の個人や団体を名指ししていれば名誉毀損や脅迫として規制可能ですし、学校や病院の周辺、住宅街などでの大音量の宣伝活動は業務妨害や静穏な生活環境破壊を理由に規制可能かもしれません。
ヘイトスピーチが悪い表現であるがゆえに法的規制すべきでないのは、いくら警察官が安保法制反対デモに共感できなくてもデモ隊の警備をしなければならないのと同じ理です。悪い表現も良い表現も憲法は保障している。警察官は、あるいは集会に公共施設を貸した自治体は、ヘイトスピーチや安保法制反対に賛成だからそうしているわけではありません。
4月25日の朝日新聞投書欄に、ある老婆の「太陽」と書いてソルとはどうしても読めないという趣旨の変な投書が掲載されていました。私も驚きましたが、ネット上でも結構話題になったようです。
これはひどい。誰を指しているのか分かるしソルさんは未成年者で自分で選んだ名前でないだけに、さらに言えば一見もっともらしい理屈の皮をかぶっているだけに、私はヘイトスピーチよりもたちが悪いと考えます。こんな投書をした婆さんは人として恥ずかしいし、こんな投書を掲載した朝日新聞は恥ずかしい報道機関です。
でも法的に規制すべきかと問われれば、それは違うと思います。恥ずかしい表現内容だからといって法的規制を容認すれば、言葉狩りになってしまいます。私たちがすべきは、ソルさんに「(あんなこと言われたけど)あなたは立派な人だ。よく頑張ったね」と励ましの言葉をかけてあげることではないでしょうか。
私もヘイトスピーチは解消されるのが望ましいしヘイトスピーチは人として恥ずかしいと思います。でも法的な規制はやはりおかしい。表現の自由で一番大事なことは、表現内容の善悪や価値を判断するのは表現者や受け手であって、公権力はその判断をしてはならないということです。
日本が男女差別や人種差別に満ち溢れている国だと仮定しましょう。そのときに、少数派の市民が「差別断固反対! セクシスト(あるいはレイシスト)は叩きのめせ」という集会やデモ行進をする自由は当然認められるべきでしょう。
もちろんヘイトスピーチが特定の個人や団体を名指ししていれば名誉毀損や脅迫として規制可能ですし、学校や病院の周辺、住宅街などでの大音量の宣伝活動は業務妨害や静穏な生活環境破壊を理由に規制可能かもしれません。
ヘイトスピーチが悪い表現であるがゆえに法的規制すべきでないのは、いくら警察官が安保法制反対デモに共感できなくてもデモ隊の警備をしなければならないのと同じ理です。悪い表現も良い表現も憲法は保障している。警察官は、あるいは集会に公共施設を貸した自治体は、ヘイトスピーチや安保法制反対に賛成だからそうしているわけではありません。
4月25日の朝日新聞投書欄に、ある老婆の「太陽」と書いてソルとはどうしても読めないという趣旨の変な投書が掲載されていました。私も驚きましたが、ネット上でも結構話題になったようです。
これはひどい。誰を指しているのか分かるしソルさんは未成年者で自分で選んだ名前でないだけに、さらに言えば一見もっともらしい理屈の皮をかぶっているだけに、私はヘイトスピーチよりもたちが悪いと考えます。こんな投書をした婆さんは人として恥ずかしいし、こんな投書を掲載した朝日新聞は恥ずかしい報道機関です。
でも法的に規制すべきかと問われれば、それは違うと思います。恥ずかしい表現内容だからといって法的規制を容認すれば、言葉狩りになってしまいます。私たちがすべきは、ソルさんに「(あんなこと言われたけど)あなたは立派な人だ。よく頑張ったね」と励ましの言葉をかけてあげることではないでしょうか。
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